花を貰ったことがあるだろうか。
旧友は訪ねてくるなりそう切り出した。不精がそれでも出した茶には手を付けようともしないが、こいつは人の目を気にする割りにこういうところで周りが見えない性質だと思い直して、どういう意味かと訊き返す。
降旗はどうやら、女から花を貰ったらしかった。この陰気な男がそれほど女にちやほやされるとも思えないが、実際、降旗を養っている女は存在するので、狭い日本とは言え物好きの一人や二人は居るのだろう。無理矢理に納得を試みながらもどうにも解せないという態度を隠さぬまま、木場が委細を問うと、降旗はもごもごしながらそのときのことを語った。曰く、一週間ほど前の昼下がり、散歩に疲れて立ち寄った喫茶店でコーヒーを飲んでいたところへ、客の女がふらりと近づいてきて、一輪の花を渡し、店を出て行ったということだった。
「知らねえ女なのか」
「ああ、まったく」
「わからねえな。どんな女だったんだ」
「年は僕らより少し若いくらいだと思うが、何というのかな、儚げな印象の、綺麗な人だったよ」
「話はしたのか」
「いや、一言も交わしていない」
「一言も?」
そこで少し、会話が途切れた。降旗が漸く湯飲みに手を伸ばしたのだ。ここへ顔を見せた当初より、幾分緊張が取れて見える。思い詰めると底の底まで沈む男だ、抱えていたものを少しだけでも吐き出して、肩の荷が下りた気がしたのかもしれない。まあ、それはいいとして。
「一言も、ってのは、どういうことだよ。その女が花を差し出して寄越したとき、あげますとか受け取ってくださいとか、何か言ったんだろう。おまえさん、それには応えなかったのか」
「彼女は、何も言わなかったんだ」
「ああ?」
降旗の簡潔な返答に、木場は声を裏返らせる。
「何も言わず、黙って花を差し出してきたんだ。何だかわからないまま、ともかく受け取ったんだが」
そうしたら、笑顔で一礼して、店を出て行ってしまったんだよ。
降旗の語る女は、まるで奇怪である。知人の古本屋の好みそうな、人が空を飛ぶだとか足の無い女が柳の木の下に化けて出るとか、そういう類の話ではない。ないけれど、噛み合わない。木場の中にある、こうあるべきという人の行動の手本のようなものから、凡そ外れているのである。
おそらくそれは降旗にとっても似たような感覚として受け取られた体験だったのだろう。自分をひたと見詰める木場の視線に気付くと、僅かに目を逸らしながら、僕は女性から花を貰ったことがないから、そういうときの女性の心情というものがよくわからないんだ、と、取って付けたような弁明をした。
「手前の女房には言ったのかよ」
「里美さんかい? ああ、花を持って帰ったら、どうしたのかと訊かれて」
つくづく嘘の吐けない男である。
「で、何て言ってた」
「ひなげしの花言葉は感謝だ、って」
「はあ?」
その貰った花というのが、ひなげしだったんだ、と降旗は付け足した。
「そういうことは先に言えよ。はあ、しかし、感謝、ねえ」
何がわかったわけでもなかった。大体、木場などからすれば、花に言葉があることすら知らなかった。博覧強記の知人なら知っているのだろうか。或いは、飲み屋の女どもの好みそうな話題でもある。いずれにせよ、ここで三十を過ぎた男が二人、無い知恵を絞ってこれ以上議論をしたとして、糸口の見つかることもないように思えた。
「……茶、淹れ直すか」
「いや、そろそろお暇するよ」
そんなわけで、呆気なくその日の集会はお開きとなった。



*



「──で、あたしに訊きに来たってわけ」
潤子は短く溜息をついて、カウンター越しに木場を一瞥した。
「そうだ。悪いか」
「別に悪くないけどさ。それにしても、あの人結構もてるんだね」
木場の突き出したグラスを受け取って、酒を注いでやりながら、潤子は適当に感想を述べる。降旗がこの店の常連になって久しい。潤子の中でも降旗の人と為りについてある程度印象が固まりつつあるが、女性の扱いという点では、どうも読みが甘かったらしい。
潤子の言葉に木場は笑って、世の中ってのはわからねえもんだ、と濁声で言った。
「それよりも、花だよ」
「花?」
「花に言葉があるんだそうだ。ええと、ひなげしは何だったかな」
「感謝、でしょう」
「そうだ。やっぱり、知ってるじゃねえか」
「それが何なのよ」
返ってきたグラスを煽って、木場はううんと唸った。ここへ来る前から飲んでいたのだ、いくらこの男が酒に強いといっても、そろそろ打ち止めかな、と潤子は隅で考える。
「降旗の女房が」
「里美ちゃん?」
「ひなげしは感謝だと言ったんだと」
「ちょっと待って、降旗くん、里美ちゃんにその花のこと話したの?」
「のこのこ持って帰って、それは何だって訊かれたから、正直に答えたんだとよ」
馬鹿だよなあ、言わねえよなあそういうこと、と木場は管を巻いたが、こればかりは潤子も同感だった。馬鹿正直にも程がある。よしんばそれが彼の美点なのだとしても。
「……どのみち、やっぱり女の子にもてるとは、思えないわねえ」
「だろ。だから、奇怪なんだ」
木場は豪快な声を立てて笑い、そのままテーブルに突っ伏した。劈くような寝息に顔を顰めながら、潤子は左頬に手のひらを当てる。
奇怪。たしかに。
だが。
「大方、どこかでちょっと優しくしてやった子に惚れられて、付け回されてたりするんじゃないかしらねえ」
あの手の男はそういう女に好かれやすいのだ、とは、ふと思いついただけの仮説である。第一、降旗の方では女のことを知らないと言っているのだから、これは無いのだろう。
厄介なことにならなければ良いが、と一抹の不安が過ぎったが、木場の寝息が煩くて、今はそれどころではない。
「──もう、ここはあんたの家じゃないよ」
ぶつくさ言いながら、潤子は木場の大きな背中を揺すった。