「俺ぁ、娘が欲しかったんだ」
出し抜けに言った石川の真意を汲み取れず、橘は寸の間、動きを止めた。
春をこれ以上ないほど輝かせる庭は新緑が目に眩しく、夏へとその殻を破るときを待ち構えてうずくようにそよぐ日だった。の婚礼の儀を待つ間、酔っちゃあ出来ねえ話をしようじゃないか、と石川に誘われ、男は二人、池のほとりを歩いていた。
「嬢が生まれたときにゃあ、俺はそりゃあ悔しかった。俺たちの内々で女が生まれたのは、あいつのところだけだった」
「兄貴にも、は娘同然にかわいがってもらいましたよ」
「ああそうだ。嬢は何も、お前さんにとってだけの愛くるしい姪っ子じゃあない」
「すみません」
「止せや、今さら謝られたって、どうなるでもなし」
橘は、腕組みで胸を反る石川の背を追いながら苦笑する。そして、ほんの十数年前の、未だに昨日のことのように鮮明な、を迎えた日のことを思い出す。
幼くして両親を亡くしたを、本当ならば石川が引き取るはずだった。彼女の父親は兄弟の契りを交わした石川へ宛てて、委細くれぐれも宜しく頼む、とのことをしたためていた。しかし、彼女の母親の胸中を知っていた橘は、石川の前に膝をついて頭を垂れ、どうかを自分の手元に置かせてほしい、と談判した。石川は無言のまま、亡き兄弟の手紙を、橘の目の前で二つに裂いたのだった。
柔らかな頬、花と咲く笑み、真っ白なワンピースの裾を揺らして、きらきらと鈴を転がす声。ただ時の経つのも忘れて、彼女の絹の髪を撫でてやる、そんな至福がこの世に存在することを、どんなに嬉しく思ったろう。ともすると、思い出ごと水飴で固めて、ずっと懐に抱いていたいほどに。
道をゆけば誰もが先を譲り、畏怖から平伏しさえする、そんな極道の高みを往く彼等でさえ、かつて共に鎬を削った男の忘れ形見を、手放しに愛する心を止められなかった。
「俺のところへ寄越してたら、嬢を鳥篭から出してやる気にはとてもならなかった」
石川は言う。
「あれの母親の判断は、正しかった」
「……さあ、どうでしょう」
「この期に及んで、お前さんが煮え切らないてえのは、よかねえな」
ゆっくりと振り返った石川の、その眼鏡越しの視線に耐え兼ねて、橘は肩を落とした。
「すみません」
「俺に謝るのは、どういうわけだ」
「兄貴が、を大事に思ってくれていることも、ちゃんとわかっているつもりです」
「大事に思えばこそ、嬢が大事にしてるもんくらい、俺にもわかる」
返す言葉もなく、橘は己の爪先をじっと見つめるしかない。石川は黙ってその様子を眺め、やがて赦すようにふいと顔を逸らした。
「悪いな。お前さんの気持ちも、わからんではない」
大切な者の幸せを願う。そのことの難しさを、こんなにも強く、歯痒く、思い知らされ続けている。
それは、彼女の成長に対しての責任をただ独りで負った、橘にしか見えない世界。
ただ愛し、優しいだけの時間の檻に繋いでおくことは、もうできない。その扉を開け放つ先に、彼女の笑顔を思うなら。
「俺がお前さんの立場でも、似たような今日を迎えたろうよ」
「そう言っていただけると、少しは気が楽です」
「嬢はお前さんを恨んだりはせん」
「そうでしょうか」
「ああ、それに、水田もな」
橘は石川の肩越しに、見えない彼の瞳を見、そして、長く息を吐いた。
この人は、本当に、何もかもわかったうえなのだ。
暫しの沈黙があった。小鳥の遊ぶ声が、場違いな二人の男の上を行き過ぎる。やがて石川が口を開くと、橘も予感していた。
「ただ、これだけは憶えておけよ」
もし、二人のうちのどちらかが、お前さんとつながっているはずの糸が切れたと知ったときには。
切れるはずがねえと? そうじゃあない、お前さんがどう思おうが、相手が「切れたと思い込んだ」ときに、だ。
死ぬか、殺すか。
どっちかを覚悟しとけよ。

それが、極道だ。

「──何ぼけてやがる、そろそろ戻るぜ」
飛び石の先で石川が呼ぶ声が、遠い意識の果てから橘を引き戻した。の眼が涙に狂うのも、千一の名だけ抜け落ちた組員名簿も、すべてはこの一瞬に、五月の浮かれた陽気が見せた幻影でしかない。
橘は、ぐるり、庭を見渡した。
春をこれ以上ないほど輝かせ、目に眩しい新緑は夏へとその殻を脱ごうとしている。けれど、そのうずくような華やかさを押し潰し、やがて重く垂れ込める雨の季節がやってくる。
その雨粒が我が子を襲うというのなら、俺はこの身を楯ともしよう。


だからどうか、我が子らの行く末に、実り多き秋の陽のあらんことを。