まだ授業中のはずの時間帯、不意に鳴った電話の相手がだったことで、水田はにわかに緊迫した。
「どうしました、お嬢」
『千一、……お願いが、あるの』
電話越しのは張り詰めた様子ながらも、水田の声にいくらか安堵したらしく、ため息のようにそう言って、迎えに来てほしい、誰にも言わずに、と伝えた。その先は彼女の通う高校ではなく、病院。
「お嬢!」
着くなり廊下を駆けてくる水田を、は弱々しい笑顔で迎えた。
「千一、ありがとう。ごめんなさい、忙しいのに」
「いえ、そんなことは良いんですが…何が、あったんですか」
水田の問いに、は顔を伏せる。転んでしまって、と庇う左腕に巻かれた包帯を見止め、水田は腹の底の煮える思いがした。
「──どいつですか」
「ちがうの! ちがうのよ」
「お嬢が何と言おうと、俺達が黙ってはいませんよ」
「お願い千一、叔父さまには、このことは」
「そんなことはできません!」
「千一……」
眉尻を下げ、は水田をまっすぐに見上げる。
「……それでは、私はまた、逃げることになるのよ」
の言葉に、水田ははっと口を噤む。そして思い出した。が両親を亡くし、叔父の橘勲に引き取られてすぐ、転校した小学校で受けていた嫌がらせを。
あの時も、は心も身体も傷つけられたというのに、相手は雲を掴むように判然としなかった。強いて言えば、学校そのものがの敵だった。それで橘は、学校そのものを潰してしまった。理事会を破綻させ、校長は自殺し、小さな学校法人が壊滅するのは砂の城の崩れるがごとく呆気なかった。
同じことが、また起こるのか。
「……しかし、お嬢」
「私は、大丈夫。あの頃とはちがうもの」
は静かにそう言った。静かだけれど、瞳の奥に宿した光は、強く鋭い。橘を前にしたような錯覚をおぼえ、水田はひとつ、身震いをする。
有象無象の犇めき合う群衆がいくら寄り集まって巨大な城を造ろうと、そよ風のひとつにも耐え難かろうが、彼女はそんなものには瞥もくれない。
は、自身が、ひとつの城だった。それは紛うことなく、橘がそうであるように。
「──わかりました。今日のことは、おやじにも、他の組員にも伏せておきます。ただ」
ほっと肩の力を抜いたの手を、水田は膝を折って、そっと取る。
「お嬢、これだけは約束してください。危ないことはなさらないと」
「ええ、約束するわ」
は笑んで、私は大丈夫、と繰り返す。
「大丈夫、大丈夫──だけど」
もう少しだけ、そばにいて。
取られた右手を握り返して呟いた、の目に溢れたもの。
それが、水田が最後に見た、彼女の涙だった。