外来診療はもとより見舞いの面会時間もとうに過ぎ、それでも水田は、橘の病室の前を離れられなかった。
静かなハイヒールの音が近づいてきて、隣に腰を下ろす。が携帯電話を鞄へしまいながら、主人も仕事を早めに切り上げて、明後日の便で帰国するそうよ、と報告したが、ほとんど耳を通り抜けただけだった。そんな水田の様子を黙って見つめ、はほうとひとつ、大きく息をつく。
橘が銃弾を受け病院へ緊急搬送されたという知らせを、はどんな思いで聞いたのだろう。それ以前に水田は自身の足抜けに関して、に何も伝えていないままだった。彼女にかけてしまった大きな心痛を思うだけでも、自分がやるせなくてならない。いったい何を見て、悩み、苦しんできたというのか。この半年ほどずっと、抱えてきたはずの重い荷、それが何であったか、もう水田にはわからない。今や影も煙も残らないほどきれいに消え失せ、そしてただ、胸を裂くような愛と優しさが、たしかにここに在るという現実。
血が結び、あるいは盃に結んだ、それしか糸がなかったなら、きっとここには居られなかった。
そんな不安を、橘のただ一言が薙ぎ払った。なお残っていた欠片まで、がすべて吹き消してしまった。意識不明の橘の容態について、医師や看護師から、詳しい話は家族にしかできない、と突っぱねられた水田を、は怒声に近い勢いで、彼は家族です、と強引に同席させた。水田の中で肥大する一方だった葛藤は、橘の中にもの中にも、初めから存在すらしなかった。欲しくて欲しくてたまらなかったものが、目の前でずっと手を差し伸べていてくれたことに、やっと、気がついたのだ。それは絆というにはあまりにも不確かで、あたたかく、絶対的な、名前もない糸。
「──……ばかね」
ふと、水田を見遣ったは、泣きそうな声で笑って、水田の肩をそっと抱いた。それで、あふれる涙はよけいに止まらなくなる。
どんな夜もいつか必ず明けることを、まるで初めて知るかのような。