凪いだ海原を音もなく滑るように、濡れ羽色のセダンが夜の街を切り裂いてゆく。
ハンドルを握る水田は、万が一にもそれと気付かれないほどかすかに動かした瞳で、ミラー越しに後部座席を見遣る。の、車窓を眺める横顔がそこには在った。
「お疲れですか、お嬢」
頬に落ちる憂いの影を案じ、水田は声をかけるが、小さくひとつ息をついたは、いいえ、大丈夫よ、と応えてほほ笑む。彼女の口から弱音や我が侭の言葉が出ないことを知っていて、それでも尋ねてしまうのは、いつか彼女が、自分には心の内を聞かせてくれるのではないかと、淡い自惚れを抱いていた頃の名残だ。
の姓が橘からへ変わって、半年ほどが過ぎた。の叔父である橘勲が勧めた見合いは粛々と婚礼を迎え、アジアを中心に観光ホテルを展開するリゾート会社の若き経営者が、彼女と揃いの指輪を嵌めることとなった。海外出張の多い夫にも帯同する折が増え、近頃では専ら空港への往来に水田が車を走らせるようになっていた。
「しかし、良かったんですか。ご主人を置いて、お一人で帰国されて」
「私が居ても居なくても、あの人の仕事に影響はしないもの。それに、叔父さまがあんまり寂しがるから」
そこで、橘の様子を思い出したのか、はふふっと鼻先を震わせる。そうだ、たしかに、橘は寂しがっていた。昨夜の電話で、前ほどに会えなくなった、と当の自身にぼやいていたのを、水田も脇で聞いていた。ならば何故。水田は心の奥底で、自分の中に叫びを見つける。ならばなぜ、をあの男と結婚させたのか。
水田の中でのたうつ叫びが、声はおろか表情にさえ、その片鱗を見せることはない。それがどれほどの意味も持たないことを、水田はよくよく理解していた。寡黙な橘が言葉を尽くして愛でる姪をそう安々と下賜するはずがなかったし、が叔父に背くとも思えなかった。の持つ資産や生み出され続ける金は莫大で、この縁談は橘にとってもにとっても、関東貴船組にとっても、この上なかった。それが叶い、彼らがこうして安寧の内に、会えなくて寂しいなどとすねてみたり、それならばとひと足早く帰ってみたりと、そぞろな日々を暮らすことこそ、幸福の具現なのである。
だから、水田の顔に漣のひとつも立つことなど、今までもこれからも、一度としてあるはずがない。
「あとどのくらいで着くかしら」
「少し混んでいるようで、一時間ほどはかかるかと。裏道を行きますか」
「いいえ、このままでいいわ」
訝しみ、片眉を寄せる水田に、は睫毛を伏せる。
「やっぱり少し疲れているみたい。着いたら起こしてね」
そう言うと、はすうと長く息を吐いた。車内に静けさの帳が落ちる。
ただずっと、この時間が続くのだとしたら、どんなに。
眠れる水面の底の底で、疼くような音のない叫びが、今日も水田の腹を蹴る。