その日、は真っ赤に泣き腫らした目で小学校から帰ってきた。
橘は名古屋での会合のため一昨日から家を空けており、留守番の水田は慌てて委細を問うたが、はうつむいたまま何も答えない。すぐにおやじを呼び戻しましょう、と電話に手を掛けるが、強く裾を引かれ、それもかなわない。おろおろと状況を見守る子分たちを散らせ、小さくひとつため息をつくと、水田は、庭へ出ましょうか、とを誘った。
六月の庭は梅雨の晴れ間に青々と紫陽花を湛え、少しだけ冷えた空気がひたりと肌に触れる。軒先のガーデンベンチに並んで掛けて、水田はの方から訳を話し始めるのを、辛抱強く待った。小鳥の囀りと、遠く飛行機のゆく音と、ときおり風の渡る音。やがて、がすうと息をつく。
「──……わたしを」
好きになってくれる人なんて、どこにもいないのかしら。
小さな掠れ声、しかし水田の耳には、刺さるように聞こえた。心無い同級生の言葉だろうか。それとも、その周りの大人の? 彼女が今の学校へ転入して二ヶ月、日に日に差してゆく影が、ついにの肩へ手を置いたのだ。
アレはやくざの子どもだ。
両親に置いて逝かれたかわいそうな子。
だってしかたない、やくざの子だもの。
そんな陰口をきく親や教師の多いことは、橘に伴って転入手続きのため学校を訪れた際、水田も胸糞の悪い思いで見知っていた。直接歯向かう気もないくせに、こんな小さな少女の真上へ、その汚い息を浴びせかけたというのか。水田は怒りに背が震える。
その耳へ、の、ため息を絞り出すような声が届く。
「……千一も……千一が、わたしのそばにいてくれるのも、みんな、おじさまのためなの?」
水田は寸の間、に問われた言葉の意味を量り兼ねた自分がいたことを、不思議な気持ちで受け止めた。
そんなふうに考えたことはなかった。水田とは、客観的に見れば、たしかにそう捉えられてもおかしくない関係ではあるのだろう。彼女の叔父が持つ絶対的権力、それに魅了され付き従う者が、彼の愛する姪に取り入ろうとしているのだと。水田は、芙由子と初めて相見えたときより、ただの一度も、橘のためにに気に入られようなどと思ったことはない。
の縋るような目が自分を射ていることに気づき、水田は、眉尻を下げてに向き直った。
「お嬢は、おやじ抜きには、俺のようなやくざ者は、お嫌いですか」
水田の言葉に、はこの世の終わりのような顔をし、千切れんばかりに首を横に振る。その様子にやわらかく笑んで、水田はの頬にそっと手を触れた。
「それと同じです。いや、それ以上だ。俺は、たとえお嬢がおやじの姪ごさんでなくとも、……俺を嫌いになったとしても、それでもお嬢が大切です」
水田を見上げたの両目から、みるみる涙が溢れ出す。それは水田の指を伝い、ぱらぱらと庭へ雨を降らす。
いったい誰が、この穢れなき無垢な少女を、愛さずにいられるだろうか。
泣きじゃくるの肩を抱きながら水田は、遠く暮れてゆく淡い空を見つめていた。
今日という日をいつか彼女が懐かしく思うとき、彼女の頬を濡らすものが微笑みであるようにと、ひたすらにねがった。