夫はやさしい人だった。
休日はいつも朝食を作ってくれたし、月に一度はの好きな芝居に連れて行ってくれた。買い物に行けばさりげなく荷物を持ってくれ、が往来に揉まれないよう自然に道をつくってくれた。
穏やかで、微笑みの絶えない人。夫とともに在るとき、の心に襞が寄ることはない。
箱庭にあそぶ小鳥のように、ただ何事にもとらわれず、朗らかでいられるなら、それは紛れもなく幸福なことで、を愛し、この安寧を与え続ける夫のことを、自分もまた愛しているのだと、そう思っていた。
そう、思い込もうとしていた。
ある晴れた昼下がり、夫は出張で二日ほど前から日本を離れており、家にはひとりきりだった。
クッキーを焼いていると、叔父から電話があった。近くまで来たのでこれから寄るという。お待ちしています、と答えたの耳に、電話越し、少し遠く、聞き慣れた声が届く。叔父を呼び、車の準備がととのったことを知らせたその声を、ばかやろう、今電話中だ、と叔父が窘める。失礼しました、と慌てる、彼の顔が目に浮かぶ。
、すまん』
「いいえ。今日は、千一の車ですか」
『ああ。王子会に顔を出すんなら、の家にも近いと、あいつが言い出したんだ』
「今、夫が家を空けていますから、私が寂しくしていないか心配してくれたのでしょう」
『千一は、おまえの兄貴みたいなもんだからな』
叔父の言葉に笑って、二、三、他愛ない会話の後、電話を切った。
途端、踵を返すと、まっすぐ寝室を目指した。鏡台の抽斗の二番目、お気に入りのアクセサリーを入れた宝石箱から、迷わずアメジストのネックレスを取り出す。
どうして。
の心は、にわかにざわめき始める。
愛する夫とともに在るとき、の心は揺れたりしない。
けれど、彼を──千一を思うとき、は居ても立ってもいられなくなる。
どんなに遠い電話越しでもその声を聞き間違えることはなく、叔父とともにこれからやって来ると知り、普段はつけないアクセサリーを身につけたくなる。
そして、叔父に自分の家へ寄るよう促したのだと聞いて、どうしようもなく浮き立ってしまう。
どうして、どうして。
こんなに、千一に会いたくてたまらないのだろう。