必要最小限の話を終えると、夫は顔色一つ変えずに席を立ち、一礼をして、病室を出て行った。 はで、そんな夫の挙動を目で追うこともしない。ただ、ありがとう、ごめんなさい、と呟くと、背中合わせに、いや、僕のほうこそ、と呟く声。 十年続いたこの夫婦関係は、そんな言葉で終止符を打った。 「すまねえな、」 「いいんです、そんなことより、叔父さまはもっとご自身をいたわって」 ベッドから半身を起こし、叔父がへ眼差しを向ける。背に銃弾を受け、昨朝の手術が終わるまで意識不明だったというのに、橘は目まぐるしく変転する自身を取り巻く環境に、ゆっくりと身を休める暇もない。は、それが心配だった。 橘勲率いる関東貴船組は、億にものぼる額の負債を抱えた。これを解消するため資産という資産を投げ打ち、──その中で、の夫が経営する観光産業の海外資産もまた、多数、売却を余儀なくされた。しかし、夫は厳密には組員ではないし、また配偶者の血縁の、しかも長く経済的な困窮を続ける可能性の高い暴力団とその組長の、借金を肩代わりすることを、己のこれからの人生と、秤にかけることさえばかげていると思ったようだった。の名義であった台湾とシンガポールのホテルやレジャー施設を手放す代わりに、今後一切、自分や自分の会社と関わらないでほしい、と訴えてきた。それは突き詰めれば、への三行半であった。 「税理士の先生にも見てもらいましたが、これで損失は埋まるそうです」 「俺のせいだな、千一に、無理をさせ過ぎた」 「叔父さまにそんなことを言われると、千一はまた、気を病みますよ」 「そうかもしれねえな」 の言葉に、橘は目を伏せて寂しそうに笑む。盃の絆を交わしたはずの子に、自身の傾ける情の薄さを思わせてしまった、そのことが橘を今、苦しめていた。 「あいつが気に病む必要なんか、本当は、どこにもねえんだよ」 水田が今までにどれほどの思いで貴船組を、何より橘勲という親を、最大限に生かすための土壌を耕し続けてきたのか。そのすべてを知りながら、それに見合うだけの労いを返してやれなかった。 「俺が、出来のいい子どもに甘え切った結果のざまだ、そのツケをまた、あいつに背負わせちまった」 橘の遠く梅雨空を透かし見る瞳を、もずっと追ってゆく。 「叔父さまの、その思いだけで、千一はきっと、報われる以上のものを得るのでしょうね」 白く白く、垂れ込める雨雲を刷毛で退くように、うす青い空がのぞいている。この冷たく淀んだ季節にも終わりが近づいていることを、小さな声で伝えている。そう思いたくなるような、やさしい色だった。 「お嬢」 が病室を出ると、廊下の先から水田の声に呼ばれた。 「いらしてたんですか、連絡をいただければ、お迎えに行きましたのに」 「今日は、主人の車で来たのよ」 「そうでしたか」 「ええ。……元、だけれど」 「は」 訝しげに片の眉根を寄せる水田に苦笑して、落ち着いたら、ゆっくり話すわ、と肩を竦める。 もし。 指輪を脱いだ左の薬指にそっと触れて、は一度、じっと水田を見つめる。 もし、これからの未来を、夢に見てもいいのなら。 病室を出る間際、橘はを引き止め、ある一つの謝罪を打ち明けていた。 ──俺はお前に、最上の伴侶を選んでやると約束した。だが結果的に、結婚したことでお前は、不幸にしかならなかった。 ──それは、こうして離婚することになったからじゃない。 が一番幸せになれるのは、誰の隣にいるときか。 それをずっと知っていて、それでも別の男のもとへ嫁がせた。 ──その後悔を、もし今、覆すことができるなら。 、千一と一緒になれよ。 そう、言ってやりたい。 「──……お嬢」 どうされました、と水田に問われ、はふと我に帰る。 「ごめんなさい、ぼうっとしちゃって」 「大丈夫ですか、このところ、あまり休んでおられないのでは」 「心配ないわ、私は、大丈夫」 微笑んで、これまで抱くことすらしなかった淡い期待の、これから現実となるかもしれない白い未来の、そこに立つ自分の隣に、いてほしいと願う人の名を、は呼ぶ。 「千一」 「はい」 「ありがとう」 好きよ。 その一言を、水田がどんな顔で聞いたのか。 それもすべて過去になることを、はこのとき、まだ知らない。 ただ、白日のもとに見る夢の、入り口に立っていただけだった。 |