叩きつける無数の雨粒はどれも無遠慮にでかい。
頬を肩を抉る勢いで襲い来るそれらへ向かっていく格好で、水田は夜の街を奔っていた。
唐突なガサ入れだった。フロントの見張りが慌てた様子で連絡を寄越したときには、既にビルは黒い人渦に取り囲まれており、正面玄関は元より裏口へつながる非常階段の隅に至るまで、獰猛な狗の眼がぎらぎらと黙していた。この賭場へ水田が訪れることなど年に一度あるかないかのことだというのに、それを見越したかのような、周到な張り込み。アンダーカバーを疑う間もなく、手帳を掲げた捜査員がドアを蹴破って八階のオフィスへ雪崩れ込んだ。
組織の末端へはこうした万が一のことを言い含めてある。彼らが何人縄を食おうと、まずは頭を生かすこと。それができなければ、手足がてんでに逃げ延びる意味も無いのだ、奇襲とはいえ、全員が瞬時に水田をこの場から外へ出すために動き出した。入り口を固め乱闘に持ち込む者たち、通用口を死角に取る者、残り数人を連れてオフィスを出ると、幹部しか所在を知らない従業員用のエレベーターで地下へ降りる。水田がここへ来る際に乗ってきた黒塗りのセダンに水田以外の三人が乗り込み急発進すると、それを柱の影から赤色灯をうならせたワゴンが追いかけていく。音が遠ざかるのを待ち、水田は夜雨に紛れてビルを抜け出した。
街はどこもかしこも検問だらけだった。耳鳴りのような赤が目に五月蝿い。できるだけ細い路地、できるだけ暗い角を無意識に選んでいた。おとりに車を向かわせた方角と正反対に位置する小川へ辿りつくと、ようやく水田は足を止めた。この橋を渡れば、管轄する警察署が変わる。
橋のたもとにコンビニエンスストアがあり、闇に淀んだ景色を安っぽい蛍光灯が四角く切り出していた。入り口に立つ人影に見覚えがあり、水田は目を細める。
「──……お嬢」
「千一、遅いわ」
制服姿の少女は小首を傾げ、二本持った傘のうち大きい方を水田に差し出す。衣替えしたばかりのセーラー服が白を主張して、目に慣れない。
「どうして、ここに」
「あなた、私を迎えに来てくれたんでしょう。私が傘を忘れたから」
の言葉の意味が分からず、訝しげに眉を寄せる水田を他所に、は水田の手を取って、黒いこうもりを握らせる。そこへ近づいてくる、一目で警察官とわかる服装の男が二名。
「水田千一だな」
「そうだけど、あなたがたにそんなふうに呼ばれる理由が、彼にはないわ」
振り向きざまの水田より早く、が警官に応える。
「先ほど、違法賭博の現行犯で数十名が逮捕された。すぐ近所の賭博場だ。そこから逃げてきたんだろう」
「彼はたった今、私の家からここまで、私に傘を届けてくれたのよ」
自分の持つ花柄の傘と、水田の手に握らせたこうもりを順に指差して、は臆面もなく言い放つ。左の男がむっとした顔をしたのを右の男が慌てて窘め、探るような目をに向けた。
「君は、橘さんだね」
「ええ」
「水田に迎えを頼んだと言うのかい、それにしては、この男は濡れ鼠だが」
「そうね、今日は風も強いから」
「……あまり大人をからかうものではないよ」
「子どもだと思って、強く出ればいいというものでもないわ」
はまっすぐ警官を見返す。まばたきひとつしない。
「それとも、叔父さまに電話で直接確認しますか? 私を迎えに行くよう、千一に言ったのは、叔父さまなのだから」
の口から出る「叔父」という言葉。それが関東貴船組組長を指すのだと、目の前の二人の警官は当然ながら理解していた。明らかに腰が引け、君がそこまで言うのなら、そうなんだろうね、と唾を飲む。
やがて駐車場へ滑り込んだ一台の車を、は手招きする。後部座席へ水田を先に入れ、警官を一瞥してから自分も乗り込んだ。警官たちはその車がまた音もなく駐車場を出て行くのを、指をくわえて見ているしかない。
「お嬢、あの」
「いいのよ。叔父さまは、すべてご存知だから」
「申し訳ありません」
「仕方ないわ。この男がいけないのよ」
後部座席に並んだ芙由子がかばんから取り出した写真には、最近入ったばかりの痩せた若い男が写っていた。こいつが狗の手先か、と水田は奥歯を噛むが、が何でもないことのように、その人、今ごろはお舟の上で肝臓の値踏みでもされてるんじゃないかしら、と言う。
「……本当に、申し訳ありません」
「いいのったら。そんなことより、千一」
けがしてない?
撃たれたり、殴られたりしてない?
あなたを失うことはできないと、叔父さまが言ってたわ。
それは、私も同じ。
の見上げる瞳が、静かにそれらを語ってから。
「──風邪、ひくわ」
そっと、やわらかなタオルを頬に押し当てた。