「五年二組は、まだ授業中ですか」 静まり返った職員室に、水田の冷たい声が通る。窓際の前から三番目の席に掛けた四十半ばの女性教諭と、その脇に立つ水田を、周囲の教員たちが息を詰めて見守っていた。 ある晴れた日の午後だった。風もなく穏やかな陽気、水田は運転手を一人連れ、の通う小学校前へ乗り付けていた。近頃、の叔父である橘勲が組長を務める関東貴船組と、長年睨み合いを続けてきた武州王子会の間に、俄かに剣呑な空気が漂い始めており、の身を案じた橘が、水田に日々の送迎を申し付けていたのだが、時間になっても姿を見せないを訝しみ、水田は一人、職員室へ上がり込んでいた。 「……授業は、もうとっくに終わっています」 の担任である女性教諭が、俯いたまま水田の問いに応答した。 「では橘さんだけ、何か用事があって学校に残っているのですか」 「いえ、橘さんもみんなと一緒に、もう帰宅したはずで」 「私はずっと校門におりましたが、さんは出てきませんでしたよ」 担任のたどたどしい喋り方に、苛つきを隠せない様子で、水田は淡々と言葉を被せていく。 「す、すれ違ってしまったのでは」 「我々は三時半からずっと、校門前にいました。授業が終わるのは四十分、すれ違うはずはありません」 「授業が終われば、児童はいっせいに帰宅しますし、人並みにまぎれてその、見落としたのでは」 「私がさんを見落とすことはあり得ません。さんも、毎日同じ時間に同じ場所に停めている我々の車を、見落とすわけがない」 水田の眉間の皺が、みるみる深くなっていく。担任は真っ白な顔面に冷や汗を噴き出しながら、震える唇を必死に動かす。 「では、では校門から出たのでは、ないのでは」 左の頬を僅かに引き攣らせ、水田はくいと顎を引く。担任が先刻からやや不自然な位置に手を置いている、それが気になっていた。前腕で隠すようにした、彼女の上着の右ポケット。 「あ、っ」 「勤務中に教師が携帯電話を持ち歩くんですか、この学校は」 伸ばした腕で強引に彼女の腕を掴むと、ポケットからどぎついピンク色をした携帯電話を引っ張り出す。冷水を浴びたような顔で水田を見上げる担任を他所に、水田は通話履歴を呼び出した。電話帳に登録のない番号から何度か着信の記録があり、最後の通話は今日の午後三時四十二分。水田はためらいなく、その番号へのリダイヤルを押した。 『──……あァ、なんだよセンセー』 ややあって、柄の悪そうな男の声に電話が繋がる。無言で携帯電話を差し出す水田にうろたえながら、耳元へ押し付けられたそれへ向かって、担任は言葉を探しながら話しかける。 「い、今、どこに」 『はァ? 言うワケねーだろ。何、一度は売ったものの、教え子ちゃんに何かあったらどーしよー、って?』 男の下品な声に、きつく眉根を寄せる水田を、悪魔に縋るような目で見つめてから、担任は腹を括ったらしく、先程よりはしっかりとした口調で会話を再開した。 「橘さんは、無事なんですか」 『心配ねえよ、キズひとつねえから。今のところは、な』 耳に障る甲高い笑い声が受話器から離れ、ほらよ、先公、と遠い声。やがて、ためらいがちな少女の声が電話口に出た。 『……先生』 「橘さん!」 『このハシモトって金髪ロングの男の人、先生の彼氏?』 「え、っ」 の声。常より少し強張ってはいるものの、落ち着いている様子に、水田は少しだけ安堵する。が、彼女の窮地は依然変わらない。 『学校の近くに、こんな大きな工場があるなんて、知らなかった。新聞みたいなにおいがする』 『……っおい、ガキが調子に乗んじゃねえ!』 噛み付くような男の声と、鈍い濁音がして、それきり電話は切られた。が自身の監禁された場所を伝えようとしたために、男が逆上したことは明らかだった。 水田は盛大な舌打ちとともに、自分の携帯電話を取り出しながら足早に職員室を出て行こうとする。固唾を飲んで様子をうかがっていた周囲の教員たちが、一斉に水田を避けて道をつくる。その木偶の波を渡り終えると、戸口でぴたりと足を止めた水田は、振り向きもせず、あんたらの処遇はひとまず保留だ、とドスを利かせる。 こんな学校はさっさと捻り潰してやりたいが、まずは何より、お嬢を救い出すのが先だ。 が言葉にした男の人相を、頭の中の王子会の面々と突き合わせていく。違う、王子会にはいない。だが、金の長髪──廊下を足早に玄関へ進みながら、水田は子飼いの情報屋に電話を掛ける。 「俺だ。王子会傘下の河村一家に最近、若いのが入ったろう、そいつの名は……そうか。印刷関係で、河村んとこで自由が利きそうな工場を持ってる会社はあるか?」 情報屋はすぐに、いくつか候補を並べ立てた。その中で、ここから一番近い場所──。 「青葉町だ。地図を送ってくれ」 校門で待っていた運転手は水田を見るなり、緊迫した様子を察したらしく、車へ乗り込むと水田の携帯電話に送られた地図を一瞬で把握し、アクセルを踏み込んだ。 「──……お嬢、申し訳ありません、俺がいながら、こんな」 「千一のせいじゃないわ、私がもっと、気をつけていれば良かったの」 紙束の山に腰掛けたの前へ跪いて、水田は頭を垂れる。はそれにゆっくりと首を振って、迷惑かけてごめんなさい、と言った。 貴船組本部から呼び付けた総勢三十名で乗り込んだ印刷工場には、主犯の橋本を含め、五名しかいなかった。たかが子ども一人を取り戻すのに、貴船組がそこまで手数を掛けるはずがないと高を括っていたのか、いずれにせよ実行部隊は五人が五人、早々に抵抗を諦め、大人しくなぶられ者となった。 「先生に裏門へ呼び出されたら、あのハシモトって人がいたの。先生、あの人からお金をもらってたわ」 「やはりそうですか」 「でも、それだけじゃないみたい」 お互いに昔から知ってるみたいだったから、きっと教え子だったのかも。の呟きはそのまま遠い視線にのって、自分の担任教師が、今の教え子である自分より、かつての教え子、しかも道を踏み外したやくざ者の肩を持ったことの意味を、思っているように見えた。水田は言い知れず、喉の奥に熱く苦いものを感じる。 ふと、の目が連れて行かれる橋本に気付き、あの人これからどうなるの、と問うた。水田は、の耳にどこまで血なまぐさい話を入れて良いものかと逡巡しながら、まずは河村一家を通じて王子会へ事の次第と相応の落とし前をつけさせるのに、大事な手駒となるでしょう、と応えた。 の脳裏を過ぎるものは、いったい何であろうか。 自分を売った担任教師への怒りか、悲しみか、あるいはそうまでして尽くした橋本の計画を潰したことで、復讐心が満たされたのか。 そんな彼女の心を思う、水田自身の内に渦巻くものをまた、水田ははかりかねていた。 嫉妬、憎悪、猜疑、そうした負の感情から生まれる醜い炎は、水田の生きる世界ではごくあたりまえに顕在しているし、そうでなくとも大人になれば誰しも少なからず抱き、また抱かれるものである。そんなことは理解している。ただ、の瞳にその炎が宿るのが、どうしようもなく嫌でたまらない。 ああそうだ、自分は何より、ヒトの生まれ持ったそのさだめから、お嬢を守り抜きたいのだ。 お嬢がこれから背負うかもしれない業があるとすれば、そのすべてごと、自分の背に載せてでも。 「……あのとき」 不意に、が水田へ視線を向けた。 「電話をくれたのは、千一でしょう」 「は」 「先生は、自分から電話なんてするはずないもの」 職員室での出来事を言っているようだった。水田が、そうです、と頷くと、ははにかんだように笑う。 「すぐにわかったわ。千一が助けに来てくれるから、もう大丈夫って、そう思えたの」 一言も交わさなかった、あの短い電話で。 「私には、千一がいてくれるから、大丈夫って」 毀れやすい宝物にふれるような面持ちで、の手のひらがそっと、水田の手に降り立つ。水田は、先程とは違う、熱い何かが胸に溢れるのを感じる。 「お嬢、約束します、これから何があろうと、俺のすべてをかけて、お嬢をお守りすると」 の小さな手のひらを握り返し、水田はかたく、そのあたたかな宝物に誓った。 |