気ばかり逸って、は飛行機の中にいる間中、右の人差し指で左の手の甲を叩き続けていた。
ようやく纏う風にも慣れてきた香港の街角で、不意に鳴った電話。相手は珍しい人物だったが、今思えば、あんな電話をかけてよこせるのはこの男くらいのものだったろう。どこか後ろめたいような声で、水田千一の離反を伝えたのは、関東貴船組若頭補佐、白根時生だった。
水田は最近、橘のおやじが警察に協力的な態度を見せるのに不満を募らせていたようだ、と白根は言った。それにしても急な話で、お嬢、何か知りませんか、と続いた白根の言葉を、は遠のきかける意識のなかで聞いた。ようやくのところで、昨夜、電話で少し話したけれど、と応え、そして、その昨夜の電話を思い出す。
──お嬢、お変わりありませんか。
水田の声はどこか上の空のようでもあり、は訝しみながらも、どうしたの、突然、と笑った。夫の仕事の都合で香港へ居を移して半年ほどが経っていたが、月に二、三度は水田とも電話で会話をしていた。四月に一度帰国したときにも会っている。こちらはとくに変わったこともないわ、と答え、それから少し、何でもない話をして、電話を切ったのだった。
あのとき、気づくべきだった。
いや、もっとはやく、きっと前兆はほかにもあったはずなのに。
白根との電話も終わらないうちから、は鞄を探り始めた。パスポートは、ある。クレジットカードとビザと、その他帰国に必要な最小限のものが揃っていることを確認し、そのままタクシーを停める。「空港まで」運転手に行き先を告げると、電話口で白根が驚いた声を出した。
許さない。
許さないから。
私に何も話してくれなかった千一のことも、何も気付けなかった私自身も。
ただ今は、一分一秒でもはやく、千一のところへ駆けていきたい。
そして一言、謝りたい。
ごめんなさい。
あなたの世界が壊れる前に、あなたを抱きしめてあげられなかったこと。