刑務所の接見室を満たす空気は重く硬く、は身動ぎもせず、受刑者の入室を待った。 やがて、縄をかけられた男が猫背気味に、刑務官に引かれてやって来た。鷲頭健介はもっと肌の白い男だと思っていたが、浅黒くこけた頬と深い隈に落ち窪んだ眼が記憶のそれと俄かには一致せず、は寸の間、息を飲んで男を見つめた。 刑務官に促されなければ着席もできないその男は、やっとと目線を同じくしたというのに、瞳は虚空をさまようばかりで、まるでを見ようとしない。これまで再三の面会要請を悉く拒絶されてきたが、会えば会ったでこの状態では、もはや正常な会話が成り立つかどうかも定かでない。 鷲頭とこうして顔を突き合わせるのは、ほとんど一年ぶりだった。 去年の梅雨が終わるころ、鷲頭は人を殺めた。 この世で最も信頼し、尊敬し、その人のためになら命を捧げてもかまわないとさえ思っていた人を、その手で。 しかしそれは、閉塞された狂気が鷲頭を支配した結果、手にした刃を振り立てる先を間違えたのだ。鷲頭の殺意は成就しなかった。それどころか、一番大切なものを、永遠に失ってしまった。傷害の現行犯で逮捕され、聴取、起訴、公判、そして判決を受けここへ至るまで、鷲頭はただの一言も発さなかったという。 一昨日、へ宛てて刑務所から連絡が入り、鷲頭が三度目の自殺を図ったと聞かされた。電話口では担当刑務官を呼び出し、鷲頭への面会要請と、本人に拒否の意思を示させないよう、やや強い口調で願い出、今日、初めての面会が叶った。 「──あなたが」 沈黙を裂き、は切り出す。自分で思っていた以上に柔らかな声音、は少し安堵した。この一年で、自身もまた、ゆっくりと時間をかけて気持ちの整理をつけることができたのだろう。 「勝手に死ぬことを、許さない人間がたくさんいます」 鷲頭がを見なくとも、は両の眼にまっすぐ、鷲頭を捉え続ける。 「あなたは本意でないかもしれないけれど、私も、……叔父も、千一を慕っていた他の多くの者たちも」 の口から叔父という言葉が出た瞬間、焦点の定まらなかった鷲頭の瞳が、鋭く一点に結ばれる。それに続いた千一という名に、鋭利な眼光がまた急速に萎んでゆく。 「そして、千一も」 鷲頭の肩が、がくりと重力に従った。 この男はきっと、世界のすべてを恨んでいる。 そして同時に、自分自身を呪い続けている。 そう。 それでいい。 「あなたは、生きなければならない」 生きて、苦しんで苦しんで、そうして自分がしたことの本当の意味を、自分自身に問い続けていかなければならない。 その道半ばで、それを自ら放棄するなど。 「許されるわけが、ないでしょう」 の言葉が終わり、耳に痛いほどの静寂が取り巻く接見室に、空気の震える音がする。 小さく、酷く、鼓膜を破るような、鷲頭の嗚咽。 肩を落とし、項垂れた鷲頭の後頭部を見届けてから、は刑務所を後にした。結局、鷲頭はこの日も何を喋ることもなかったが、もう二度と、自死を企てることはないだろう。 車へ戻ると、運転席で一人、は祈るようにかたく目を閉じた。 この一年で、失ったもの、変わったもの、得たもの、そのすべてを、ひとつひとつ、思い出す。 叔父は一定期間の服役の後、かたぎの道を懸命に生きることを決めた。それに付き従った者も皆、もがきながら人生をつかみとろうとしている。は叔父の抱えた負債を解消するため、夫に頭を下げ、それを交換条件に夫から離縁を言い渡された。今は小さなアパートで、叔父と二人、つましく暮らしている。 あの日から、鷲頭だけが、止めた時間を動かすことなく、死んだように生きていた。 それを、彼が許すはずはない。 千一の時間は、あの日、本当に止まってしまったのだ。もう動かせない。 けれど……それを止めてしまった鷲頭のことだけは、きっと、後悔している。 鷲頭の堕ちた深い闇に、再び光が差すことはなかったとしても、それでも千一は、やっぱり我が子には生きてほしいと思うだろうから。 「私が、千一にしてあげられることはもう、こんなことしかないけれど」 せめて、あなたが最期に残してしまった未練を、私は背負って生きていきたい。 だから私は、鷲頭が勝手に死ぬことを、決して許さない。 |