「いらっしゃい、あら」
店に入るなり仏頂面のまま無言でカウンターの最奥を陣取った入山を、は苦笑しながら出迎えた。
「うまくないことでもおありですか、ああひょっとして、またご兄弟と喧嘩でも?」
「……ママのそういうとこぁ好きだがね、そうずけずけ言うもんじゃねえよ」
入山は差し出されたおしぼりを受け取りながら、苦い顔でそっぽを向く。くすくすと、の笑み声が耳に降る。
七月の第三月曜日である。東京と千葉の県境に位置するこの町は、ベッドタウンよろしく、普段から飲み屋の繁盛するような土地柄ではない。そして週頭ともなれば、二十時を回ったゴールデンタイムであっても、客足は疎らどころか、入山が今日の来店一人目であった。
「定例会、昨日でしたでしょう」
「ああ、まあな」
「今度は何を揉めてらしたんです」
「売られたモンは買うだけよ」
「毎度毎度じゃありませんか」
「やくざが兄弟喧嘩しちゃあ可笑しいかい」
「よっぽど虫が好かないんですねえ、水田さんのこと」
「……ママ、俺の頭んなか読めるのはいいがよ、それをいちいち言葉にすんじゃねえよ」
の言うとおりだった。入山は詰まるところ、若頭の水田が気に食わないだけである。定例会や理事会のたびに吹っかけたり吹っかけられたり、顔を合わせれば悶着は必至で、しかも毎回、組内の立場もしのぎの才覚も、結局は水田の方が一段上なのだと、自ずから思い知るばかりなのだ。それが余計に、入山を苛立たせる。
「他のご兄弟とは、そこそこ仲良くしてますものねえ」
「客の嫌がる話題を、まだ続けるかねえ、この店は」
出された水割りを煽り、舌打ちする。がうふふと笑ったところへ、サラリーマン風の男が二人、ドアベルを鳴らした。そちらのソファ席どうぞ、とにこやかにカウンターを出てゆくを横目で見送って、入山は勝手に腕を伸ばし、帳場の脇の乾き物をつまみ始めた。
腐れ縁とはよく言ったもので、入山がと出会ってから、かれこれ半世紀近い時間が流れていた。己の重ねた年齢を思えば、それも致し方ない、彼女とは小学校からの幼馴染である。若い時分には惚れた腫れたの痴話騒動なんかも繰り広げたりしたものだが、結局籍も入れないまま、だらだらと続くこの関係が、二人には一等しっくりくるようでもある。少なくとも入山は、遅い雨の朝を過ごすような、背徳じみた居心地の良さに甘えていた。
「あらあ、じゃお客さん方、お仕事は池袋?」
サラリーマンの相手をするの声を、背中だけで聞く。会社は駅のどこそこの、あああのコンビニ、まだあるんですねえ、ええ私、以前は向こうでお店してたものですから。へえ奇遇だねえ、じゃ信号角のパン屋は、そうそう赤い看板の。お店は、その二軒先の半地下でねえ──。
胸糞悪い。
の東京時代の話が、入山は一番嫌いだった。
池袋の店は、元はの叔母が切り盛りしていた。その叔母が病に倒れ、二年ほど閉めていたところを、入山が買い取りに店を出させた。あの頃はまだ二人とも二十代で、多少の苦労も厭わずに、荒波だって乗り越えてゆけると錯覚していた。しかし開店から半年で、新宿の小競り合いに巻き込まれた入山が逮捕される騒ぎとなった。刑務所にいる間の一年半、店の面倒を見ていたのが水田である。売り上げは上々、客層も各界の大物が多く、組のしのぎにも少なからず貢献していたのだが、出所後、入山が仕切るようになると、次第に勢いを失っていき、五年で閉店した。以来、は地元へ引っ込み、千葉も方々を転々としたが、ここへ落ち着いてもう七年になる。
あのとき、あのまま水田が店を仕切ってりゃあ、今とは違う人生が、にはきっとあった。
誰に言われるよりも、自分こそが、それを髄からわかっている。事実、落ち目の店を閉めると決めたときでさえ、あんたさえ良きゃ、もっといい場所に店を構えてみねえか、あんたの手腕なら、六本木辺りでもいけるだろう、と水田がに誘いをかけていたのだって、入山は知っている。
この道で生きていくなら、そうして信を置かれることは、この上ない誉れのはずだ。
それを蹴ってまで、俺に付いてくる必要なんかなかった。
組も、巷も、金も運も、俺の欲しいものはいつだって俺より水田を選ぶ。それならそれで、徹底的に根こそぎ全部、掻っ攫っていきゃあいいものを。
なんだって、あいつだけ取りこぼしていくんだよ。
俺と一緒じゃあ、幸せにしてやれねえじゃねえかよ。
「何か言いましたか」
不意に、耳元での声がしたので、入山はぶるっと首を振るった。
「飲んだくれて独り言なんて、年寄りみたいじゃありませんか」
屈託のない悪態を落として、はカウンターを抜け、サラリーマンの会計を済ませる。ほろ酔いに気分良く出て行く背中を見送って、ふうと息をついて戻ってくる。
「で、何をぶつくさ言ってたんです」
「……さてね、何だったか」
「癪に障ったんでしょう、池袋の話」
「……だからよお」
読んでも、言うなっつんてんだろ。
がしがしと髪を掻き毟り、入山は苛立ちを全身で表現した。は、くすくすと笑うだけである。
水田の誘いを断るのに、がどんな理由を付けたのか。あの嫌味な男は、それをわざわざ入山に伝えてきた。待ってる人があるからやれただけのことを、あの人もいないのに、できませんだと。水田はそれだけ言って、鼻を震わせた。笑いやがったか、てめえこの外道が。それから、入山と水田とは犬猿の仲が続いている。
金も運も才覚もねえのに、惚れた女だけは、俺を選んだ。
そんな自分の人生が、何故だか泣けてくるほど情けなく、ただ行き場のないやるせなさを、ぶつける先が欲しかった。そんな入山の心中を知ってか知らずか、普段は冷静な水田も、入山には自分から因縁をつけるような節もあった。それが情けをかけられているようで、いずれ入山を逆撫でした。
「だから水田は好かねえんだよ」
「はいはい」
入山の管を受け流して、は水割りを差し出す。
煽ると、つんと鼻の奥が痛む。
やがて入山が、出汁巻き、とつっけんどんに言いつける頃には、は既に、にこにこしながらたまごを溶いていた。