五時きっかりに仕事を終え、三分で帰り支度を済ませ、同僚からの飲みの誘いをにべもなく断り、職場を出た。
いつものバスでいつもの席におさまり、車窓を楽しむこともなく揺られること三十分、ゼニロフは、いつもどおりの時間に自宅に着く。
「おかえりなさいませ、おじさま」
「ただいま。その呼び方は止めなさいと、いつも言っているだろう」
出迎えた妻に鞄を渡しながら、いつものように訂正する。は、ゼニロフの年の離れた兄の娘である。結婚して一年経つが、未だに親戚付き合いのころの空気が抜け切らない。
「申し訳ありません、あなた」
はしゅんと肩を落として、呼称を直した。お食事になさいますか、お風呂になさいますか、と問うので、食事を、と答えた。
テーブルに向かい合って夕食を摂る。今日のメニューは、ビーフストロガノフだ。
「お仕事は、いかがでしたか」
「食事中に話をするものではない」
「……申し訳ありません」
静かな夕食が終わると、ゼニロフはソファに寛いで夕刊に目を通し始めた。キッチンで洗い物を終えたが、リビングに顔を出す。
「お風呂の用意ができていますよ」
「ああ」
「……あの」
経済面の記事に注がれていたゼニロフの意識を、の控えめな呼びかけが引き剥がした。
「何かね」
「あの、……あの」
呼びかけたものの、その後の言葉を探すように視線を泳がせるに、ゼニロフは溜め息を隠さない。
「言いたいことがあるのなら、はっきりと言いなさい」
決して強い語調ではないがつきつけるようなゼニロフの言葉に、はますます、身を縮める。
やがてぼそりと、申し訳ありません、と言った。
ゼニロフの中に、奇妙な違和感が広がる。
の「申し訳ありません」を、今日だけで何回聞いただろう。今週では、今月では?
「なぜ、謝る」
「……私、が」
良い妻でないことが、あなたをいらいらさせているのでしょう。
俯いたまま、小さな声で、はそう言った。
そして、ぱっと踵を返して、お着替えをお持ちしますね、とリビングを出て行ってしまった。
後に残されたゼニロフは、ぽかんと口を開けたまま、その背を見送るしかない。
「……良い妻でない、?」
はゼニロフの贔屓目を抜きにして見ても、よく気の利く女だった。家事もそつなくこなし、三歩下がって夫の影を踏まず、実によくできた妻であった。多少、そそっかしいところがないわけではないが、それもゼニロフには愛すべき欠点としか思えなかった。
そういうわけで、ゼニロフがに対して、いらいらしたことなど一度もないのだが。
なぜ彼女は、そのような勘違いをしているのだろうか。
「ふうむ」
私の愛し方が足りないのか? だがこれ以上、どう愛せば良いのか。
ゼニロフは一人、首を傾げる。

何せ、ゼニロフにとってこの世で夢中になれるものなど、金としかないのだから。