愛しい人の帰りを待ち続けて、三年。彼の出所をいよいよ明日に控えて、浮かれた気分で家に着いたを待っていたのは、一本の電話だった。
脱獄。
そんな、だって、どうして。
明日だったのに。
刑務所からの事務的な電話は彼の犯した罪状一つを伝えただけで、の問いを受け付けない。虚空に投げ出された迷子の鴎のようにたゆたって、か細く呟いた声は消えた。受話器を置いても、ソファに体を沈めても、答えの無い謎だけが彼女の頭を、存在する空間のすべてを満たしていて、ただ、息苦しい。
真面目でひたむきで優しくて、まっすぐな心を持っていて。
小さい頃からずっと見てきたから、たった一度の欠勤で投獄されても、が彼を信じ続けることに何の障害も無かった。
きっと、決められたとおりに罪を償って、真っ白な彼のままでまた会える、そう思っていられた。
けれど。
「…………………………」
長い沈黙の後、顔をあげたは、そうだわ、と一つの仮定に光を点した。
誰かに唆されたに違いない。同室に極悪なやつがいて、逆らえないように脅して、脱獄の手伝いをさせたんだわ。かわいそうに、きっと彼は震えているわ、暴力なんて大嫌いな兎だもの。
許せない。
時計を見遣ると、既に刑務所の電話受付時間は過ぎていた。明日の朝一番に、彼と同室だった収容者について問い質して、彼の潔白をきっちり解らせてやらなくちゃ。そう決めると、俄然燃えてきたは、刑務所の事務員との一戦に備えて早めに寝ることにして、早速風呂に入る準備を始める。
と。
リリリン、と再び、電話が鳴り始めた。
さては刑務所から、やはり先刻の情報は間違いだった、との謝罪かしら、と意気込んで受話器をあげたの耳に、懐かしい声が飛び込んでくる。
、と、ほっとついた溜め息とともに名を呼んだ、彼は。
「─────プーチン……?」
うん、とはにかんだように頷いてから、彼は、申し訳無さそうにここ数時間の出来事について語った。同室の男が脱獄の主犯だったことには違いなかったが、プーチンは、自らの意思でついていったのだ、と言った。
「どうして? 脅されて、逃げるのを手伝わされてるんじゃないの?」
「あはは、キレネンコなら一人だって充分逃げられるよ。僕なんかきっとお荷物さ」
「でも、そんな……何で、脱獄なんて。明日だったのよ」
「うーん、なりゆき、かなあ」
「……何、それ」
久しぶりに、彼の声を聞いた。あたたかい喋り方も、柔らかな笑い方も、全然何も変わってない。
「なりゆきって、何なのよ、それ」
「……ごめん」
しゅんとした声。きっと、耳が垂れてる。
三年前と何一つ変わらない彼が、受話器の向こうに、いる。
そう思ったら、涙が出てきた。