「ようこそ、おばさま。ああ、まるで夜空にきらめく星々をまとっておられるようだ、今日もなんて美しい」
大仰な身振りで言ったコプチェフに、痩身の美女は小さく、笑みを浮かべた。
「止めて頂戴、そんなお世辞。あなたって本当に、女を喜ばせるのがお上手ね」
上品なソプラノが、鳥のさえずりのように空気を震わせる。は羽織った黒のロングコートの裾を風に靡かせて、車から路上へと降り立った。
「今日のご予定は?」
「まずは、主人に会いたいのだけど」
「すぐに呼んでこさせますよ。おい、そこの奴、局長に、奥様がお出での旨をお伝えしろ」
応接室へと彼女を案内しながらコプチェフは、通りかかった部下に指示を出す。部屋に着くとの方へ向き直って、にこやかに微笑む。
「どうぞ、おかけください。コーヒーは、お砂糖が二つでしたよね」
「ええ、ありがとう」
「運がいいですよ、普段なら碌な茶菓子も無いんですが、今日はアップルパイがある。何故だと思います?」
「わからないわ、何故?」
「あなたが今日いらっしゃることをお聞きして、今朝のうちに用意させました」
まあ嬉しい、と喜ぶに、にこにこと笑顔の大安売り。もし今ここに、コプチェフの同僚たちがいたら、鼻歌でも歌いだしそうな調子でお茶の用意をはじめる彼の様子に、少し退くだろうと思われた。それほど、コプチェフは浮かれて見えた。
「美味しいと評判の、広場の南にあるパティスリーのパイです。どうです、味もさることながら、見た目も好い」
「まあ本当。でも悪いわね、気を遣わせてしまったかしら」
「いえ、とんでもない。俺がしたくてしたことですから」
眉を下げたに、ぶんぶんと両手を振って弁明する。実際、パイを買いに走ったのは、コプチェフではなく彼の部下なのだが。
甘党の彼女が嬉しそうにパイを切り分けるのを見ながら、コプチェフは、眩暈がしそうなほど脳がくらくらしている自分に気付く。
いつもそうだ、彼女を、を前にすると。
彼女の美しさを、この世に比類なきものと、コプチェフは信じて疑わなかった。
紺碧が次第に淡く滲む、澄んだ大気の凍えるような冬の夜明けよりも。
黄金色に輝くさざなみが散りばめられた、夕陽の沈む海原よりも。
の持つ気高い美しさは、彼女と出会ったその日からずっと、コプチェフの身も心も、掴んで離さない。
彼女が、彼の民警入りを取り持った叔父の妻であるという事実を以ってしてもなお、絶ち難い想いを、彼に抱かせるほどに。
「待たせたね」
不意に男の声がして、コプチェフは我に帰る。振り向くとが戸口に立っており、笑顔のが、それに駆け寄るところだった。
「コプチェフ、妻の相手をしてくれていたのだね、ご苦労」
「あ……いえ」
「では、行こうか」
「ええ、あなた」
腕を組み、応接室を出て行く二人を、コプチェフは敬礼しながら見送った。
心臓の裏側に、小さな針を埋め込まれたような感覚に、何度経験しても慣れないもんだな、と、自嘲気味に鼻を鳴らす。
思い知ってからもう、だいぶ経った。決して触れることの叶わない、絵画の庭に咲く一輪の花に、恋をしたのだと。
届かぬ夢も自棄の遊びも潔く止めにして、真っ当な兎らしい生き方をしろ、と言ったのは、たしか、愛妻家の相棒だった。あいつとは長い付き合いだが、そういうところが気に食わない、と常々、コプチェフは思っていた。
「─────できたらとっくにやってんだよ、バカ野郎」
残されたのは、食べかけのパイと、少し冷めたコーヒーだけ。