何だってこんなことになってしまったんだろう。
私の頭はひどく混乱していた。まるで脳みそにコーラとスパークリングワインを混ぜて、思い切りミキサーにかけたみたい。右手の親指は爪を齧りすぎて、お気に入りのピンクのネイルがすっかり剥げてしまった。何だかやる気がなくなって、どさっとソファに身を投げる。
発端は、父の一言だった。
「明日からしばらく、私の取引先の会社にお世話になりなさい」
要するに人質になれと言われた。その言葉の裏を読めない年齢でもないし、手広く事業を起こしてはたびたび危ない橋を渡ってきた父親が、今度はいったいどんな失態をやらかしたものかと考えるだに、憤りを通り越して呆れを覚えていた。私はそんな親の言いつけを粛々と身に受けてやるほどよくできたお嬢さんではなかったから、当然反発し、家を飛び出した。こういうとき力になってくれる悪い友達も下町の小汚い店なんかにはたくさんいて、一週間ほどは彼らの根城を転々としていたが、やがてその「父の取引先」とやらが私の所在を嗅ぎ付けて、手荒いお迎えが寄越された。どうやら私がお世話になる予定だったのは、私が頼った友人たちを取り纏める「悪い組織」のようだった。
そこまでは、よくある話だったはずなのだ。
問題は、その組織の頂点に立つ男の存在だった。
端的に言えば、私は彼に見初められた。そんな甘ったるい雰囲気ではもちろんないのだけれど、どうやら気に入られてしまったらしいことは明白で、強面の屈強な男たちに拉致され連れて行かれた部屋で対面してから今まで、彼は常に私を傍に置きたがった。荒くれ者を纏め上げる組織のボスだけあって、有無を言わさぬ鋭い視線、呟くだけの簡潔な言葉で一群を右から左へ意のままに動かすカリスマ性、そういうものを完璧なまでに備えていた。そんな男がなぜ、たった一度会っただけで私のような小娘にうつつを抜かしたのかといえば、それはどうやら、私の体に染み付いた匂いのせいらしかった。

「何よ」
「どけ」
ソファに身を横たえていた私を、いつのまにかやってきたキレネンコがじっと睨んでいた。私がしぶしぶ半身を起こすと、大仰な座り方で私の隣へ腰を下ろす。
「別にここに座らなくてもいいじゃない」
私は眉根を寄せて不平を述べた。事実、広い部屋にソファはあと三つも並べてあるのだ。キレネンコはゆっくりと新聞を広げながら、お前の隣がいい、としれっと言った。
キレネンコは異常なまでにスニーカーを愛していた。私の祖父はシューズメーカーを興し一代で財を築いた人で、──そのおかげに父のような出来の悪い二世経営者が生まれてしまったのだが、それはともかく──私は物心つく前からずっと、スニーカー工場を遊び場に育ってきた。
キレネンコ曰く、私の纏う匂いはスニーカーそのものなのだそうだ。
一歩間違えれば変態の発言である。
しかし私は、そんな理由で私の傍から離れようとしないキレネンコに、何をどう間違ったものか、いとしさを感じ始めている。
それが目下、一番の悩みなのだった。
私の匂いが好きで一緒にいるような男を、好きになるなんて。
自分で自分が信じられない。
でも。

少なくとも彼は、祖父のように仕事一筋で家庭を顧みない人でも、父のように自らの行動の責任を家族に転嫁する人でもなく、表向き私に救いの手を差し伸べてあわよくば利を得んとする友人たちとも違って、純粋に「という一個人」を見てくれているのだ。
キレネンコの大きな手のひらが、私の肩を抱き寄せる。私は言い知れない幸福感に高揚し、彼の胸に頬を寄せる。
そうして私は強く誓った。今この時を、体いっぱいに満たそう。彼を愛していると思い込んでいる私自身を、全力で愛そう。
明日はきっと、ちがう人を好きかもしれない。