家が見えた辺りから、おかしいとは思っていた。
「ただいまー……?」
常ならば煌々と灯りのともった、あたたかい我が家。だが今日は違う。玄関の鍵こそ開いていたが、中は、暗闇にしんと静まり返っている。おそるおそる廊下を進み、そっとリビングへと続くドアノブを回しながら、ボリスは妻の名を呼んだ。
「おーい、いないのかー……って、うわ」
壁を這った手が灯りのスイッチを入れるなり、ダイニングテーブルに向かうが蛍光灯の光に浮かび上がって、思わず大きな声を出してしまう。何だ、いるんじゃないか、と狼狽を取り繕うように言って、不自然に笑った。
「どうしたんだ、電気もつけないで」
「─────これ」
「今日の夕飯は? 昨日はコトレッタだったから、今日はビーフストロガノフかな」
「……ないよ」
「え?」
呟くようなの声が聞き取れなくて、ボリスは何? と振り返る。
ガタン、と大きな音を立てて、が椅子から立ち上がった。
「今日の晩御飯はありません! これどういうこと!?」
叫んだの剣幕に気圧され、目を白黒させながら、ボリスは突きつけられた紙切れを受け取る。一週間前の日付の入った、レストランの領収書だった。ボリスが、休日出勤をした日の。
「あっ……あーいや、これはその」
「お仕事だって言ったじゃない! 晩御飯も適当に済ませたって言ったじゃない! ここすっごく高くて美味しいって評判のとこでしょ!? どうしてそんなとこの領収書が、あなたの上着のポケットに入ってるの!」
「いやっそれは……ど、同僚と」
「浮気してるんだ!」
「ち、違う!」
ボリスは慌ててぶんぶん首を振るが、はわあっと泣き崩れる。
「バカぁ、一生大事にするって言ったくせに!」
「違う、、誤解だ! これはっあいつだよ、相棒のコプチェフ、ほら、よく話すだろ? あいつと賭けをして、敗けて、奢れって言うから仕方なく」
「ウソ! お仕事だっていうのも、きっと最初からウソだったんでしょう!」
ひどいひどい、と泣き喚くに、ボリスはただただ、おろおろしながらしどろもどろの説明を繰り返す。
「本当なんだ! あの日は一日中検問張ってて、潜伏中のマフィアの幹部を、どっちが先に見つけるか賭けてて!」
「……それで、あなたが敗けたから、その相棒さんにご飯奢ってあげたの……?」
「そう! そうなんだ!」
少し泣き止みかけたに、半ば安堵の笑みを漏らしながら、ボリスはうんうんと頷く。がするすると顔を上げ、ボリスを見上げる。
「……その相棒さんのことが好きなのね!」
「なっ何でそうなるんだ!?」
は再び、わっと泣き出す。これ以上どう説明したら良いものか、ボリスには見当もつかない。途方に暮れながら、ただ、あいつとはそんなんじゃない、っていうかあいつオスだし、ともかくおまえが一番だから、と必死に説き伏せるしかなかった。



「はよー……おまえ、今日は一段と寝不足ヅラだな」
「誰の所為だよ、バカ野郎」
翌日、ボリスの一層深く隈の刻まれた虚ろな目で睨まれたコプチェフは、はぁ? と首を傾げる。
よもや相棒の妻から「恋のライバル」認定されたとは、夢にも思うまい。