「カク」
夕暮れの空気に溶け込むような優しい声に呼ばれて、振り返る。坂道の途中で、買い物袋を抱えてこちらに手を振る人影が見える。
「おかえりなさい」
「ただいま」
小走りに駆け寄って、が微笑む。笑顔でそれに応える。単調な日々に細く差し込む光、毎日のささやかな楽しみ。重いじゃろ、と言いながら彼女の手から荷物を掬い取ると、肩を並べて家路につく。歩調を合わせ、なるべくゆっくり。
このどこまでもありふれた日常がカクの日常となってから、そろそろ一年が経とうとしている。平和で活気あふれるこの街の雑踏に混じって、来る日も来る日も船を造る。木を切り出し、鉋をかけ、釘を打つ。はじめこそ付け焼刃だった大工仕事も、生来の器用さから今では一流と呼ばれる者たちに並び称されるほどとなった。職人気質の同僚たちはみな心持ちがまっすぐで、気のいい連中ばかりだ。その中の一人が下宿の大家と幼馴染であったことから、とは部屋の借り手と貸主という関係を一歩踏み込んで、朝昼晩と三食の世話まで受けるようになっていた。
「お仕事はどう?」
「順調じゃよー。客が金持ちじゃと木材も上等なのを使えるから、腕が鳴るわい」
「ふふっ、カクもすっかり船大工ね」
はこの街の生まれで、陽気な船大工たちを誇らしい息子のように思っているようだった。料理が上手で細かなことによく気付き、滅多に声を荒げることのないを、職人たちも母親のように慕っていた。あるとき彼らからが自分より年下だと聞かされ、その並外れた包容力との差に愕然としたのだった。
ちらちらと重なり合っては少し離れ、また近づくふたつの影。次第に色を薄めながらのびてゆくそれが、やがて触れ合う。そして、右手に感じるたしかな温もり。
彼女が好意を寄せてくれていることには、気付いていた。だけではない、同僚も、取引のある仕事仲間も、顔馴染みの街の人間たちも、カクを船大工として、この街に暮らす者として慕ってくれている。その居心地の悪い心地良さに、カクは内心戸惑っていた。
自分はいつか、この街から消える。それは果たして一年後か十年後か、命が下れば明日かもしれない。政府の諜報機関の一員がお上の捏ねた屁理屈のような大義名分を背負って暗躍している、そんな作り話のような闇を抱えながら、表向きはこの街へ骨を埋めるつもりの顔をする。積み重ねられる信頼と実績、それらが今後どのような形で利用されるのかはまだわからないが、およそ生温いやり方でないだろうということだけは承知していた。
近づきすぎては、飲み込まれる。
情が移れば、決断を誤りかねない。
では、どこまでが許容範囲なのだろう。
同僚を、街の人間を、を、手にかけろと言われたら、首を縦に振れるのか。
「──……カク?」
「ん、ああ」
不意に覗き込んだに名を呼ばれ、呆けたような返事をする。すまん、考え事しとったわい、とおどけると、不安そうに眉尻を下げたの柔らかな黒髪に触れた。
「そんな顔、せんでくれんか。とんでもなく悪いことをした気分じゃ」
「ごめんなさい、でも……何か、悩み事?」
「ああ、まあ、ちぃっとな」
ぽりぽりと鼻頭を掻いて、僅かな躊躇いの後、カクは素早くの唇に自分のそれを触れ合わせる。
「……え、っ」
「──さあ、早く帰ろう。わしゃもう腹ペコじゃあ」
わざと少し大きな声を出したのは、小さな罪悪感から逃れたいが為だった。の頬は薄明の中にあってもはっきりと判るほど真っ赤に染まっている。こんなずるいやり方でしか彼女と関われない自分を、しかしカクは受け入れなければならないし、受け入れるつもりしかない。
すたすたと歩き始めたカクを、一瞬呆けたように目だけで追ってから、も慌てて駆けてくる。ふたたび並んだ二人の影は、今度は離れることなく、やがて街角の下宿屋へと吸い込まれていった。
それはまだ、この街に根付いた闇が、静かに産声をあげていた頃。