「─────……どーも」
溜め息と紙一重の挨拶が、笹塚の唇から零れ落ちる。
「おはようございます、笹塚刑事。今日も相変わらず、全くやる気を感じられませんわね」
とびきりの笑顔でそれを迎えたに、はあ、と曖昧な返事をして、笹塚は椅子を引いた。
は、一昨日の晩、窃盗に遭った宝石店のオーナーだった。その店の入ったものも含め都内に十数のビルを抱える、大資産家である。かなり奔放な性格で、事件直後の捜査の際に聞けた話は大半が、その晩の夕食についてだとか、ここ最近の天気についてだとか、関係の無いもの。正直言って、苦手な人種だ。
そのから、事件について思い出したことを話したい、と連絡があったのが、今朝の八時。笛吹に連絡して、家から直接、待ち合わせた喫茶店へ出向いた。こんなに勤労な警官に、やる気を感じられないだなんて、よく言えたものだ。
彼女は先刻の自身の発言にはまるで頓着していないようで、今朝方見たという夢の話を、大仰な身振り手振りを交えて話し始める。いちご大福の雨が降って世界に平和が訪れたところで、笹塚はやっと、言葉を発した。
「……それで、事件の話というのは」
「ああ、そうでしたわ」
ぱん、と手をたたいて、は脇に置いた鞄を探る。前置きだけで十五分かかった。幸先が良いとは、言えない。
「実は、見ていただきたいものがありますの」
そう言って取り出したのは、濃紺のビロードを張った正方形の小箱。笹塚が受け取って、開いてみると、楕円のブローチが入っていた。
「これは、あの晩盗まれたという……」
「ロマノフ王朝の至宝、エカテリーナ二世の婚礼道具の内の一つと言われるブローチですわ。二十年ほど前、私が買い取りましてから、レプリカを作らせましたの」
「じゃあこれがそのレプリカ」
「いいえ」
花のように微笑んで、はふるふると首を振る。
「それが、本物ですわ」
彼女の言葉に、笹塚は言葉を詰まらせる。何と答えれば良いのかわからない。つまり、それは……どういうことだ。
「……盗まれたのは、レプリカの方だったんですか」
「んーそれも、違いますわ」
は、クイズの回答者が惜しい不正解をしたような反応をする。何と説明すべきかと言葉を探して、頬に手を当て、しばらく、視線を中空にさまよわせる。
「つまり、あの日、窃盗に遭ったと申しましたのは、私の思い違いだったのですわ」
「……………は、?」
「と、いうことにしていただきたいんです」
ぱん、とまた両手を合わせて、今度は拝むように、は小首を傾げる。
その後、彼女から、最近話題の高校生探偵桂木弥子と「ちょっとしたお知り合い」で、事件について相談したこと、それが存外あっさりと解決してしまったこと、そして犯人は身内であったことなどを、申し訳無さそうに説明した。
「従業員への待遇など、配慮してきたつもりでしたけれど、魔が差してしまったのでしょうね。本人もとても反省していますし、今回のことは、無かったことに致しましょう、とお約束したんです」
「それで、『思い違い』ですか」
「ええ。笹塚刑事なら、理解してくださると思ったんです。事件の手続きなども、うまくしてくださるんじゃないかしら、と思って」
「まあ、そういうことなら、そっちの方は任せていただいて構いませんが」
ようやく事情が飲み込めた笹塚は、何とも言えない気分で溜め息をつく。
「……さんは、それで終わりにして、本当にいいんですか」
「と、仰いますと?」
「いくら身内とはいえ、商品に手を出した従業員に、この先も信頼して仕事をさせられるのか、と」
一瞬、きょとんとした顔をしたは、次にふわりと笑んで、瞼を伏せる。
「ええ。上司が部下を信頼しなくては、いったい彼らは何のために働けば良いと仰るの?」
絶対とも言えるその信頼感に経営者としての根拠があるとはとても思えなかったが、それが彼女の本心そのもののように思えて、笹塚はそれ以上、追究することを止めた。
「……まあ、上にはうまく言っときます」
「そうしていただけると助かりますわ」
時計を見遣ると、十時を回っていた。そろそろ出勤しないと、連絡を入れたとはいえ、笛吹に嫌味を言われそうだ。
「では、そろそろ」
席を立とうとした笹塚の手を、すっと伸びたの手が引き止める。
「……………何ですか」
「オメガですわね」
「はあ、まあ」
腕時計のことらしい。二年ほど前に急を要してセール品を安く買ったものだが、ブランド物だけあって質は良く、重宝している。
「これが、何か?」
「とてもお似合いですわ。んーただ」
すらりと長い人差し指を軽く頬にあてて、は思案げな顔をする。
「笹塚刑事には、ロレックスの方が合うんじゃないかしら」
「……はあ」
嫌な予感がした。の大きな瞳は己が領分を見出して、きらきらと輝いている。そんなことより、一刻も早く出勤しなければ。
「よろしければ、私のお店にいらっしゃいません? 見立てて差し上げますわ」
「いや、これから仕事なんで」
「あら、それでしたら」
は、何も問題無い、という顔をした。
「お休みの連絡を、さきほど、私の部下に入れさせましたから、心配なさらなくて大丈夫ですわ」
「な、」
いつの間に。
笹塚は、開いた口が塞がらない。
「……それで、向こうは何と、?」
「きちんと了承を得ましたよ。『明日、きっちりと事情を説明してもらう』だそうです」
「……………そうですか」
どちらにしろ、笛吹の嫌味攻撃は回避不可能のようだった。
ロレックスならサブマリーナがよろしいわ、などとはしゃいでいるを見ながら、笹塚は、帰りたいな、と思った。