苦しいのは、呼吸を許されない所為だけではない。
塞がれた唇が熱を帯びていくのを、頭の奥の方で感じながら、私は自分の感情の所在を探る。
「─────おい」
いつもならそのまま組み敷かれるところを、存外に早く、早乙女は顔を離した。代わりに、眉を寄せて私をねめつける。
「……はい」
「今日は随分、つれねえ態度だなあ」
他所事を考えていたのを、気付かれたらしい。そうかな、と素っ気無く応えると、相変わらず食えねえ奴だ、と笑われた。
この世に男は二種類しかいない。
愛しても大丈夫な男と、そうでない男。早乙女は後者。
どうして、出会ってしまったのだろう。
「……ごめんなさい」
「あー、いい、今日はもう」
ソファを立った背中を、視線で追いかける。興醒めさせてしまった。それは私にとって、良かったのか悪かったのか。早乙女は私の心中など知ろうはずもないが、部屋の隅の小さな冷蔵庫から缶ビールとジュースを一本ずつ出して、ジュースの方を放って寄越した。そんな仕草も、もう見慣れたほど、こんな日は私の日常に深く食い込んでいる。
「カレシ、元気か?」
平気でそういうことを言う。
「バイト一つ、増やしたみたいだけど……お金は、もうちょっと」
そんなことは、私がここに来ている時点で、本当は頼むまでもないことなのだけれど。
「まあ、そんなもんだろうな」
契約の更新。借金の返済を待ってもらうために、週に一度、私はここへ寄越される。
それで、全てがうまく回っている。だから、誰も傷付かない。
「おう、そうだ」
ふと、思い出したように、早乙女が言った。
「俺の部下どもがなあ、お前のこと絶賛してたぜ」
「え……何で」
「ほらよ、二月にお前、俺にもチョコ寄越しただろ」
可笑しそうに言う早乙女の顔は、子供のように無邪気で、闇金の社長がこんなふうに笑えるなんて世の中は不思議なこともあったものだ、と思う。
「普通、義理でも、こんな相手に渡さねえだろ。義理ってもんを、よくわかってんだなあ、って感心してたぜ」
「それは……お金、待ってもらってるわけだし」
やはり渡さなければ良かった、と、今さら後悔した。というか、私がチョコを渡したことなんか、部下に話すことないのに。
「─────あの、そろそろ」
「おお、もうそんな時間か」
五時からのバイトに間に合うように、いつも四時半にはここを出る。時計は二十八分を指していた。

ポン、と手渡されたのは、文庫本サイズの箱。グリーンの包装紙で丁寧にラッピングされている。
「……えっと」
「ホワイトデーのお返し、ってヤツだ。誰かにやったことなんてねーからよくわかんなくてよ、まあ、気に入らなかったら、捨てるなり売るなりすりゃいい」
「…………ありがとう、ございます、わざわざ」
ぺこ、と頭を下げて、そそくさと出てきた。階段を下りただけなのに、ひどく心臓が飛び跳ねる。
この世に男は二種類しかいない。
愛しても大丈夫な男と、そうでない男。早乙女は後者。
それなのにどうして、彼はこんなにも、私を揺らすのだろう。
「─────………名前、で呼ばれたの、初めてだ」
三月の雑踏は、呑むようにして私を歩かせた。それがせめてもの救いだった。
立ち止まってしまったら、倒れそうなほど、泣きたくてしかたがない。