ほう、と大きな溜め息を吐いて、窓辺の佳人は差し込む陽光に左手を翳した。
彼女のガラス細工のような心の内を悩ませている或る小さな事件について、考え事をしていた。それは複雑に絡み合う糸のようで、ゆるゆると引き絞られて次第にその細い首を締め上げていく。路傍の仔猫のように、きゅう、と小さく、鳴くことしかできない。
「これがそうなら、ああ何てこと」
「何をしている」
背後から、男の声が彼女を呼んだ。長い黒髪を揺らして振り向くと、あら、と笑顔になる。
「脳噛くん、遅かったのね」
「どうやって入ったのかは知らんが、貴様の好きな人間どもの定めた法規に拠れば、これは不法侵入というヤツではないのか」
「そんなことより、待っていたのよ。今、大変なの」
「我輩の巣に勝手に入り込んでおいて、『そんなこと』か……フン、まあいい」
脳噛と呼ばれた男はさして気分を害したわけでもないらしく、目を伏せて鼻を鳴らすと、続きを促す。
「ところで、何が『大変』なのだ」
「ああ、よく訊いてくれたわね」
嬉しそうにパンと両の掌を合わせて、と呼ばれた女は、彼女の胸の内を占めている事件について、語り始めた。
「先日、私の経営する宝石店で窃盗事件が起きてね」
「ほう、その謎を我輩に喰わせにでも来たのか」
「いいえ、それはもう、解決したのだけれど」
「つまらん」
「そのときにお世話になった方について、今、考え事をしているのよ」
「貴様の話のその先の展開に、謎の匂いは欠片も感じないな」
「あら、ちょっと脳噛くん、厭きてしまわないで。最後まで聞いてね」
それから、退屈さを微塵も隠そうとしない脳噛と、それにはまったく構わず滔々と己の心中について語るとが、ソファに向き合ったまま、一時間ほどが経過した。
「……と、いうわけなの」
「つまりは、貴様がその笹塚という刑事に抱いた感情が、人間どもが言うところの『恋』なのかどうか、判別しかねている、ということか」
「あら、意外にちゃんと聞いていてくれたのね」
「くだらん」
「そんな、にべも無い言い方しないで。私は真剣に、悩んでいるのよ」
「人間の感情云々ならば、我輩よりも貴様の方が詳しいのではないか。『観察』が、趣味なのだろう」
「それは、そうだけれど」
が、まだ何か言おうとしたところへ、軽いノック音が響いた。
「お邪魔するよ。……って、さん?」
「笹塚刑事!」
渦中の人物の、突然の来訪だった。これには、二人とも驚いた。
「どうしてさんがここに?」
「脳噛くんとは、旧い友人なんですの。それより、笹塚刑事こそ、何故ここへ?」
「ああ、ここの探偵さんには、日頃から捜査にご協力いただいてまして」
先刻までの愚痴っぽさは何処へやら、一変して楽しそうに終始笑顔のに、脳噛は嘆息を漏らす。
笹塚という名はそう多くはないだろうとは思っていたが、やはりこの男だったか。しかし、それにしても。
本人が悩むほどのこともなく、彼女の態度はまさしく、恋する女のそれであった。それは、脳噛の目にも明らかである。
「……魔界では、惚れさせた相手を悉く岩に変えては愉しんでいた女が、よもや人間なんぞに惚れるとはな」
故郷を懐かしみながら、彼は呟く。
その言葉は、恋に浮かれた彼女の耳には、到底届きそうになかった。