顔の前で合わせた手に、はあ、と息をかけた。冬が近い。
見上げると白い空の中に取り残されたような薄い青が見え隠れして、誰も彼も寒さに身を竦めて足早に過ぎていく街角を、つんとすまして見下ろしている。
やっぱり、喫茶店で待ち合わせれば良かったな、と思いながら、は、公園に入ると、花壇の脇のベンチに腰を下ろした。
時計は十時を回ったところだ。あの人が来るまで、あと三十分ほど。
駅で買った缶コーヒーでしばらく暖をとってから、口を付ける。安っぽい味が舌に慣れなくて困惑していた頃を思い出して、少し笑う。
こんなふうにあの人を待つのは、何ヶ月ぶりかしら。
許されない関係だと、知りながらこうしているのだから、いまさら文句を言うつもりもない。ただ、会えるだけで嬉しい。
だから、待っているこの時間さえ、愛しい。
カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ。
赤ちゃんを抱いた母親。
犬を散歩させる老人。
時計を気にしながら、先を急ぐサラリーマン。
グレーの羽を陽光に煌かせる鳩の群れが、噴水の周りをぐるぐると移動している。
茶色の猫が通る。
正午の鐘が、鳴った。
握り締めた携帯電話は、震えもしない。
カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ。
ゴオオと大気を唸らせて、飛行機が飛び去っていった。
『─────もしもし』
「……久宜」
耳に当てたスピーカーから、聞き慣れた低い声がして、は彼の名を呼ぶ。
「今、大丈夫?」
『ああ、どうした?』
「どうしてるかな、って思って」
電波の向こうで男が笑う。そんなつまらない理由でかけたわけではないことなど、疾うに気付いているはずなのに、何も言わない。
『嬉しいねえ、君に気にされるほど、俺は君にとって特別な男だということか』
「ええ、そうよ」
今頃気付いたの、と悪戯っぽく笑うと、おどけた様子で、夢にも思わなかったよ、と返される。
この、他愛も無い会話にどれほど救われているか。
今日の約束もきっと反故にされるのだろう。それは夜更けに一通だけ届くメールの謝罪の一言が教えてくれるのだろうけれど、きっとそうだとわかっているのに、はそれでも、日が暮れるまでこのベンチで、来もしない想い人を待つのだろう。
久宜がぽつりと、大丈夫か、と問うた。
「大丈夫よ、どうして?」
つとめて明るく、苦笑混じりに答えると、そうか、なら、いい、と柔らかく笑う。
その久宜の声の向こうから、彼を呼ぶ声が聞こえた。若い男の声は、おそらく幸宜だろう。
「ごめんなさい、お仕事中よね」
『ああ、今日はそう忙しい方でもないんだが』
「もう切るわ。……さっきの、ね」
『うん?』
「嘘だから」
何気無く見遣った公園の外を、見知った男女が楽しげに通り過ぎていく。あんなに眩しい笑顔を、は見たことがなかった。
そうか、奥さんが会社を訪ねて来たから、私との約束は無かったことになったんだ。
『嘘って、どれが?』
「…………さあ?」
くすくすっと笑うと、それじゃあ、お仕事がんばってね、と言って、通話を切った。
缶コーヒーを飲み干す。ぬるくなってしまったら、本当に美味しくない。
久宜が特別なのは、愛してくれる存在だから。
久宜の声を聴きたいのは、愛されている自覚が欲しいだけ。
心の中が大丈夫だったことなんて、一度も無い。
それでも。
久宜が必要で久宜に救われたくて、大丈夫かと訊かれたら大丈夫よと答えられるくらい強くなれたのは、久宜がいてくれたから。
裏切られても裏切られてもあの人を愛してしまう愚かな心を、許して救って包んで絶対に見放さない存在に、愛されるばかりで愛することはできないの?
何が嘘で何が本当かなんて。

「きっと誰にも、わからないね」