この広い世界でたった一人では無いということが、どれほどの救いになるか。本来ならば未だ絶対的な信頼と安堵の中にくるまれているはずの年齢で、寒い寒い空の下、途方に暮れる冬の日も、この腕の中で小さく呼吸する体温を、守らなければならない、その現実がしかし確かに、自分を守っていたと、今ではわかる。
あの時からもうだいぶ経った。その救いもいつまでも子供というわけにいかずどんどん成長して、ソファに横になれば足がはみ出してしまうほど大きくなった。の家から戻った狭いアパートの一室で久宜は、テレビも電気も点けっぱなしで寝こけている弟に苦笑して、隅にたたんであった毛布をかけてやる。テーブルの上には茶色の紙箱とケーキ皿が載っていて、フォークに少し、チョコレートが付いて残っている。が焼いたチョコレートケーキを幸宜にも差し入れしたと言っていたから、きっとそれだろう。媚売ってるんだとか何とか言いながら、幸宜はいつもきれいにそれらを平らげる。
テレビを消すと部屋はしんとした。冷蔵庫がたてるジーという機械音を聞きながら、平和なもんだと思った。
こんな日々が、いつまで続けられるのだろう。
今が永遠に続くことなどありえないから、いつかはこの関係にも終わりが来るのだろう。それがどんな形でやって来るのか、久宜には想像がつかない。状況として考えられるのはが不倫相手との関係を清算して久宜を選ぶか、久宜がパトロンを見限って会社を完全に独立させるかの二択だが、果たして、そんなにきれいな終わり方ができるものか。
があの男に寄せている想いの深さを、久宜は、自分が弟に対して抱いている感情と似ているのではないか、と思っていた。幼少の彼女を取り巻いていた環境を考えると、それは限りなく正しいように思う。忙しくて年に指折り顔を合わせる程度の父、他人行儀に接する義母、そんな家族を好奇の目で監視する使用人たち。愛人に産ませた子─────養子縁組をして体裁を取り繕っても、陰で囁かれる真実を、突きつけられるでもなく真綿で首を絞めるように知らぬ間に辺り一面に敷き詰められていくなかで、彼女が感じていた孤独感は、如何ほどのものであったか。そんな彼女の闇に初めて光を差したのが、あの男だった。
それは愛とか恋とかいった言葉で言い尽くせない、何かもっと根源的なもので…………生きることへの執着を手放した時、それでも自分に死を選ばせなかった存在、そのものへの感謝と言っても良いだろう。より本能に近い場所に根を下ろしている。そんなもの、頭で考えて御せるはずがない。
久宜にとって幸宜は守るべきものであると同時に自分を守るものでもある。年の差も大きく前者ばかりが際立って、一時は自分が守られている存在であるということを忘れそうにもなったが、今は、互いを支え合いながら生きているのだと実感している。
では、にとってあの男の存在とはいったい何なのかということを考えると、それは枷でしかない。あの男がの心を暗がりの底から救い上げた過去は事実であっても、妻子を捨ててを選ぶ気がないのなら、それは過去を引き合いに関係を強要しているのと変わらないとさえ思う。
しかし、その枷を外すには、の中であの男を超える存在にならなければならない。それが容易でないこともまた、わかっている。
だからこそ、先が見えないのだ。何せ、久宜がを離れるなど、さらに困難なことだと、誰より久宜自身が気付いてしまっていることなのだから。
幸宜に問われたことがあった。いつまで続けるのか、と。が父親と世間を騙して不倫の恋を続けるための道具として、久宜を傍に置いていることに、幸宜は憤りを感じている。その見返りに、今や海外にまで進出する観光会社を経営する彼女の父親の強大なバックアップが兄弟とその会社を支えてくれていることも、理解はしているが、理屈で感情を遣り込めるには、幸宜はまだまだ若い。
窓を開ける。ネオンの煩い街の表から少し路地を入ったところにあるアパートへ、切れ切れの喧騒が届く。細かい風が巻いて、前髪を揺らす。夜風もそんなに冷たくはない季節になった。
花見にでも行こうか。も連れて、三人で。ふと、そんなことを思いつく。
幸宜は渋るだろうなあと思うと、その様子がありありと浮かんで、思わず笑みがこぼれる。は張り切って弁当でも作ってくれるだろうから、が付いて来るのを我慢するか、の弁当が食べられないのを我慢するかで、幸宜はきっと悩む。
願わくは、まだしばらくは、そんな安穏とした明日を思って、生きていたい。