シャワーを浴びて戻ってきて、シルクのシーツを小さく鳴らしてベッドに腰を下ろした彼女の、厚く潤んだ唇が、俄かに動いて、彼女の意思を伝える。
月が欲しい。
滴の落ちる彼女の黒髪を、肩から少し、掬って口付けて、早坂は立ち上がった。
が今までに欲しがったものは、数が知れない。そのどれもが、およそ手に入れることに容易ではないものばかり。ピンク・ダイヤモンドを埋め込んだティアラ、五十年前の沈没船から引き上げられた赤ワイン、海を臨む高層シティホテルの最上階スイートルーム、その部屋を埋め尽くすほどの、バラの花。を取り巻く男は多いが、彼女の望みを叶えてやれる者が少ないのは、そのためなのである。
部屋を出、まだ湯気の残るシャワールームへ入った。
彼女がそれらを欲しがる理由を、早坂は、知っている。
本当に欲しいものが手に入らないからだ。
あの男。
自分を恋い慕う女を、夜より深い漆黒の闇に置き去りにして、妻と二人の子供に囲まれたお幸せな家庭にぬくぬくと日々を過ごしている、あの男。
泣き喚いて縋ることもできずに、ただ、擦れ違うことすらない同じこの街に暮らしながら、彼女は今日も、あの男を想うのだろう。
キュ、とシャワーを捻る。と同時に、自嘲で咽喉を鳴らした。
そんな女の満たされることもない欲望を、せっせと埋めてやるなんぞ、俺も大概、阿呆だ。
部屋へ戻ると、シーツの白が月明かりに照らされて眩いところへ、無造作に身を横たえて、は窓の外を眺めていた。
何か面白いものでも見えるかね、と尋ねると、月が欲しいわ、と彼女は言った。
「今夜中には、難しいな」
だが簡単なものでよければ、と言葉を続けて、早坂はに歩み寄り、ベッドの端に腰を下ろした。手には、ワインボトルとグラスが二つ。
訝しんで振り向いた彼女に、グラスを一つ差し出して、ほうら、と大きく、注いだ液体を巡らす。薫り高い赤に、金色の月はよく映える。
「これで、許してくれないかな」
微笑んだ早坂を、黒の双眸が捉えてじっと射る。吸い込まれそうなほどのその深みを、彼は愛して止まない。
「─────ありがとう」
彼女の細い指が、早坂の手からグラスを受け取る。その中に放り込まれた小さな三日月が、ちらちら揺れて細かく分裂した。