笛吹さんの前世は、きっと定規か何かだ。
そんなくだらないことを考えながら、信号が青に変わるのを待っていた。たまの休みに呼び出されて出向いてみたところ、「あいつに正しい箸の持ち方を叩き込んでやる」と、食事マナー大全のDVD二十巻を片手に語る眼鏡の上司を見かけたので、すっ飛んで逃げてきたところだった。
今週末、警視総監の娘さんの結婚式に出席することになっていた。おそらくはその際に恥をかかないように、との笛吹さんなりの計らいなのだろうが、DVD攻撃にはトラウマがある。ちら、と来た方を振り向くと、悪く思わないでよね、と呟いた。
信号が変わる。電子音のとおりゃんせに合わせて、スニーカーが軽快なステップを踏んだ。通い慣れた足取りで、交差点から三軒目の喫茶店へと滑り込む。
「あら、いらっしゃい」
カラン、と品の良いアルト音域のドアベルが鳴る。肌に触れる空気は、心がほどけていくような柔らかさ。
「こんにちは、さん」
「匪口くん、またお仕事サボり?」
悪戯っぽく笑ったさんに苦笑して、今日は非番だよ、と拗ねてみせる。あらそう、ごめんなさい、と言ったさんの口調は、あまり信じていない様子だったけれど、いつものでいいわね、とコーヒーミルに手を掛けながら問われて、うん、ありがとう、と笑顔で答えた。
さんはおもしろい人だ。喫茶店をやっている理由が「って何か、それっぽい名前だから」だと、当然のことのように言ってのけるくらいには、天然な感じ。だがピラフとミートソースの味は天下一だし、何より、そのふんわりした雰囲気が、とても居心地が良い。
カウンターテーブルに並べられた陶器の人形をいじっていると、カフェオレとピラフが出来上がってきた。猫舌の俺のために、さんはいつも、食事と一緒にカフェオレを出してくれる。
「うまそー」
さっそくスプーンを掴んで、ピラフを食べ始める。さんが、しょうがないわねえ、と溜め息をついた。
「『いただきます』くらい、言ってほしいんだけどな」
「あ、ごめん。『いただきます』」
ぱん、と手を合わせてそう言うと、よろしい、とさんの声。
「ついでに、スプーンの持ち方は、こう」
「え? うん?」
「違う違う、握るんじゃなくて……」
くすくす笑いながらさんは、自分の分のスプーンも出してきて、こうよ、と教えてくれる。人差し指が攣りそうになりながらも、悪戦苦闘して、何とか教えられた持ち方で、ピラフを食べきった。
「うぇー、筋肉痛になりそう」
「おおげさねえ。でも、ちゃんとした持ち方で食べた方が、食べやすいでしょう?」
「んーまあ、掬いやすい気がしなくも、ないかな」
適温に仕上がったカフェオレを啜りながら、戦いを振り返ってコメントを述べる。
「それは良かった。ところで、カフェオレは音を立てて啜っちゃダメよ」
「う……ハイ」
どうも、今日のさんは可笑しいな、と、その時点で初めて思った。
「─────さん、ひょっとして、俺が来る前、笛吹さんから連絡あったりした?」
「あら、どうして?」
にこ、と微笑んださんの顔から、真意が読み取れない。
「そういえば、明後日、パーティなんですってね」
「絶対あったでしょ連絡!!」
俺の憩いの場が!
テーブルに突っ伏して、知らぬ間に襟首を掴んでほくそ笑んでいた敵の魔の手に、気付きもしないでまんまと踊らされていた己を嘆いた。そんな俺にさんは、いつもと変わらない笑顔で、あとはナイフとフォーク、それにお箸の持ち方ね、と言った。
「明日もいらっしゃい」
「…………知らなかったよ、さんがそんな策士だったなんて」
「正しい食事マナーっていうのは、美味しい料理を美味しく食べるためにも必要なことなのよ」
うああ、と声にならない声を吐き出しながら、泥のように、椅子の背凭れに崩れ落ちていった。
どんなに思惑がはっきりしていようと、結局、明日もここへ来てしまう俺自身を、容易に想像できてしまったからだった。