包まっているブランケットが少し物足りないくらいの温かさで、一度浮き上がった意識がまたまどろんでいく。
夢を見ていた気がしたのだけれど、どんな夢だったか思い出せない。悲しかったのか、楽しかったのか、誰かと一緒にいただろうか、それとも一人だった? 考えているうちにまた眠ってしまいそうなので、止めにした。
ごそごそと腹の辺りを探ると、下着をゆっくり身に着けた。枕元へ腕を伸ばすと、寒さが小さな針となって素肌を刺す。思わず身震いしながら、目覚まし時計を顔まで引き寄せる。
「──……、えっ」
時計の針が差す時刻は八時。あと十分で、いつも家を出る時間だ。
「どうして鳴らなかったんだ!」
慌てて引っくり返すと、アラームのスイッチが切れている。舌打ちをして体からブランケットを剥ぎ取ると、転げ落ちるようにベッドを出た。クローゼットから服をもぎ取り、ワイシャツに袖を通しながらズボンを穿き、ベルトを締めながら靴を履き、スーツを羽織りながら必要そうな書類を鞄に突っ込み、コートを引っ掴んで家を飛び出した。鞄とコートを両腕に抱えながら不格好に走って走って、ようやくいつものバスに乗り込んでやっと、ほっと息をつく。
「やあ、おはよう」
研究室に入る頃にはいつもの出勤時間ぴったりだったが、どことなく後ろめたい気持ちのまま、ギーレンは扉を開けた。室内にいた三人のうち、書棚の整理をしていたゼミ生二人が、おはようございます先生、と一礼をしたが、助手のはパソコンからちらと視線をこちらへ移しただけだった。
「おはよう、
彼女の机の前に立って、もう一度、ギーレンは挨拶をした。そして小声で、何を怒っているんだ、と問う。
「おはようございます、別に怒っていませんよ」
そそくさと机を離れながら答えたの声が、ギーレンにはいささか大きすぎるように思えた。実際、ゼミ生二人が何事かとこちらを振り向いている。
「お、あ、いや……そ、そうか」
返答に詰まる間に、はすいとギーレンをかわして、資料ファイルを棚へ戻しに行ってしまう。椅子にぶつかりながら追いかけるギーレンを、またさらりとかわして、シンクの前に立つと、薬缶に水を溜め始めた。
、おい!)
ゼミ生の目を気にしながら、ギーレンはやっとの思いでに近づくと、眉尻を下げてさらに声を潜める。
(すまない、何だかわからないが、とにかく謝る。だから機嫌を直してくれないか)
(何だかわからないのに謝られても困ります)
(困っているのはこっちだよ、君は昨日は普通だったじゃないか)
(では昨日から今朝にかけてのご自分の行動に、何か要因となるようなものがなかったか、検証なさってみてはいかがですか)
ガシャン、と大きな音をたててが薬缶をコンロに置いたので、ゼミ生たちがまた驚いてこちらを振り向く。不審に思われていないかと、ギーレンは気が気でない。
昨日から今朝にかけての自分の行動? 言われただけでは何一つ思い浮かばない。昨日はいつもどおりに仕事を終え、外で食事をとった。バーで少し酒を飲んだが、記憶が飛ぶほど酔ったわけでもない。最終のバスで帰宅し、一昨日封を切ったワインの残りを空けて、シャワーを浴びた後、ベッドに入った。
いつもと同じ、ゆっくりとした、しかし愉しい夜だった。少なくともギーレンにとってはそうだった。
だが彼女にとっては違ったのだろうか。食事も美味しいと喜んでいたし、バーでもほろ酔いの所為かいつになく朗らかだった。二人しか乗客のないバスに揺られながら、触れるだけのキスもした。ワインとチーズで一日の終わりの挨拶をして、彼女が先にシャワーを浴び、二人でベッドに入ったのだった。私が囁く愛の言葉に、はあんなに嬉しそうに囁き返してくれたのに。
目覚めた朝に、彼女は隣にいなかった。アラームのスイッチを切るなんて子どもじみた嫌がらせをして、さっさと一人で出勤し、あからさまによそよそしい態度を取る。ギーレンにはまるで真意が汲み取れない。
こんなに近しい人なのに、こんなに遠く感じるなんて。
人の心は難しい。研究室を出たギーレンは、独り、疲れ切ったように肩を落とした。

それから、その日は二人が付き合い始めてちょうど一年目の記念日だったとギーレンが気付くまでに、三日かかった。
(忘れるなんて、信じられない!)