静寂が煩い。耳鳴りだろうか。
眉を顰めながら里村は、硬直していた体を僅かばかり屈伸させた。連動して鼻が器官へ酸素を送り込む。嗅ぎ慣れた布団のにおいは少し、黴臭い。
視界が薄茫漠としているのは彼の眼が半開きだからである。眼鏡を掛けていないのもある。ゆめうつつな頭は、大分判然してきた。
雨が降っているのだ。
女の啜り泣きのように空中に溶けて鼓膜に躙り寄る雑音の正体に思い至り、里村は、完全に覚醒した。

身支度を整え、朝食を摂る。味噌汁を啜りながら目を通した新聞に寄ると、雨は一日中降り続くらしい。
ふと、知り合いの作家先生が湿気に中てられて一度抜け出した床へ再び潜り込んでいく様を想像した。悪いと思いつつ、口元が緩むのを抑えられない。彼ならきっと、晴れなら晴れで陽気に中てられて寝込むだろう。
それで、何だか雨も楽しいような気がしてきて、鼻歌を歌いながら医院へ出た。
今日予約のある患者のカルテを確認していると、最近雇ったばかりの看護婦が出勤してくる。
「お早う、くん」
「お早う御座います」
は感情の起伏の見え難い女だった。彼女の挨拶は、昨日と同じで「昨日と同じ」だった。今日は雨ですねとか、そろそろ桜が咲きますねとか、そういう無駄な話は一切しない。里村は予てよりは表情筋に欠陥を抱えているのではないかと踏んでおり、あるときそれを伝えたところ、では痛くなったらご報告しますと、やはり抑揚の無い声で返されたのだった。
ところが今日は珍しく、昨日と同じ挨拶の後には、昨日とは違う行動を取った。一度逸らした視線を再び里村に戻し、曰く、
「──『雨に唄えば』ですね」
「……うん?」
が仕事以外のことを喋るとは微塵も思っていなかったためか、里村は一拍遅れて、何とも間抜けな声を出した。どうやら彼の鼻歌を聴いて曲名を言ったらしかったが、以前に観た活動で聴いたのだったか古い記憶から偶々拾った旋律というだけのもので、里村自身は誰の何という歌なのだか知らなかった。
それで、ああ、まあ、などと曖昧な返事をすると、は小首を傾げて、私もその歌好きなんです、と言った。
その後のは何事も無かったように、昨日と同じに戻った。薬剤の点検に彼女が部屋を出て行くのを、里村はぽかんと口を開けたまま見送った。扉が閉まる音を聞きながら呟く。何だ、表情筋は正常なんじゃないか。
が笑ったのを見たのは、初めてだった。