遠い耳鳴りがさわさわと心地良く、やがてゆっくりと意識の釣瓶を引き上げていく。 茫漠と境界を持たずにいた瞳が晴れてゆくにつれ、それが雨音であることに気付いた。 今日も、生きている。 重い頭を僅かに右へ倒し、狭い室内を見渡した。明かり取りの窓からうすく白い光が流れ込んでいる。時刻は判然としない。身を起こすための筋肉が自然と動いたが、今の自分にはそれを叶えるだけの体力も残っていないことを思い知るだけの結果に終わった。小さくため息をついたところへ、からりと部屋の戸口が開く。 「お目覚めでしょうか、お食事をお持ちしました」 柔らかな女の声が言って、部屋の中央へ延べた床へ寄り添うように腰を下ろす。また苦労して首を左へ回すと、が目を合わせ、微笑んだ。 「朝餉かな」 「ええ、そうですよ」 「では、予言は当たったわけだ」 朗らかに笑ってみせると、も楽しそうに、そうなんです、私、本当にびっくりしました、と手を打つ。昨晩、薬を飲ませてもらった後で、明日は明け方から雨だろうね、と私が言ったのを、イネは疑ってかかった。夕陽がとってもきれいだったし、今だってお月様が煌々としているのに、雨なんて降りませんよ、と。だが土の匂いと風の向きと海のうねりと、あらゆる自然現象を鑑みるに、明け方はやはり雨だ、と断言した。はおもしろがって、では賭けにしましょう、私が負けたら何でもひとつ、お願い事を聞きますから、と胸を叩いたのだった。 「昨夜はあんなに晴れていたのに」 粥を混ぜながら、は不思議そうに首を捻る。立ち上る湯気を目で追うと、腹が鳴りそうになる。 「気象は物の道理だ、雨が降るにも風が吹くにも、必ずそうなる理由がある」 「でも先生はやっぱりすごいです、予言までなさるなんて」 「そうとも言えんさ、理屈がわかっても、未来を決することまではできん。今日にしたって、夜更けに風が弱まれば、雨は昼にずれ込むことも考えられた」 「まあ、でも先生、絶対に明け方から雨だって」 「そこが、賭け事の醍醐味というものだ」 いたずらっぽく口の端に笑みを乗せると、も可笑しそうに吹き出す。先生にはかないません、と両手を挙げて降参した。 彼女とこうして過ごす、とりとめもない無為の日々。病床の罪人が流刑の地に在って、これほど穏やかな心を抱いて良いのだろうか。に助け起こされ、粥を下しながら、呵責の念を奮い立たせる。己の人生のすべてを捧げたいと希った人を、この世で最も残忍な遣り方で裏切った。それでもなお救われたこの命の使い道を、私は最早ひとつしか知らない。ただ罪を悔いて生きるのでも、罰を受けて苦しむのでも足りない。償いのほんの一端にもならないかもしれない。けれどそれは、私にしかできない。 「──墨の用意を頼む」 膳を下げようと立ち上がったは、案じた表情を浮かべる。手元の碗に残った粥と私を見比べ、選ぶように言葉を継ぐ。 「お体が優れないようでしたら、たまにはお休みになられては」 「いや、大丈夫だ。今日はむしろ、調子が好い」 はそれでも何か言いたげだったが、睫毛を伏せると、わかりました、と部屋を出て行った。 物の道理を解しても、理詰めの果てが須らく皆の幸福とはならなかった。自身の正直ささえ、思いのままにはできなかった。人の世とは、かくも生き難い。しかし、そこに止まっているわけにはいかないのだ。たとえこの手が未来を決することはできなくても、あの方が今もその身を削り国家の安寧を考え続けているならば、私もそれを追いかけてゆく。足が腐ろうと肺が潰れようと、同じ景色を見ていたはずのあの方の隣に、もう立つことすら叶わずとも、ただの独りとなったとしても、私はもう、立ち止まらない。 そのためだけに、私は今日も、生かされている。 硯箱を抱えて、が戻ってきた。文机に覆い被さるようにして政案を書き連ねる私を、日がな一日、脇に控えて見守るのが、彼女の日課となりつつある。ふと手を止めて振り返ると、私が書き物に疲れたと思ったらしく、心配そうに、横になられますか、と尋ねられた。 「何もずっと私に張り付いていなくたっていいんだぞ。この身体だ、脱走しようにもままならん」 そう言っておどけると、は怒気を含ませ、そんな理由でここにいるわけではありません、と眉尻を下げる。都からはるばる罪人の側女として遣わされた彼女も、元を辿れば宮中にあって、私と志を同じくしていた者の一人である。旧知の仲ゆえに、私の病状を案じてくれるの存在は有り難く、そして申し訳なくもあった。 「そうそう、昨夜の賭けだが」 「はい」 「私が勝ったのだから、何でもひとつ、願いを聞いてくれるのだったな」 からかうように上目に問うと、は身構えて、無茶をなさるのを黙って見ていろなんて、いやですからね、と釘をさす。 「はは、まあ聞きなさい。……私は、一度は道を踏み外した男だ」 「──……それは」 「だが今度こそはまっすぐ、あの方に忠誠を誓いたい」 今さら何をと、世間に後ろ指をさされても、私にものを言う資格すらないのも、わかっている。それでも。 「こんな私を、もう一度、信じてくれるか」 存外に頼りない声音となったことを恥じる。誰に信じてもらえなくとも、あの方にすら背を向けられても、が私の遺志を継いでくれる、そう思えたならそれだけで、私は安心して永久の旅に就けるだろう。死にかけのばかな男の戯言に、しかしが何も応えないので、ゆっくりと彼女の方へ頭をもたげる。彼女はぽかんとした顔をして、それから呆れたようなため息をつき、何かと思えば、と肩の力を抜く。 「そんなのだめです、お願い事になりません」 「何故だ」 「言われなくても、私は勝手に信じてますから」 別のことにしてください、たとえば、夕餉に食べたいものとか。は言って、ああそうだ、今日は沖へ出ていた漁師が帰ってくる日ですから、おいしい魚をいただいてきましょう、と明るく提案する。私はそっと目蓋を伏せ、そうだな、それがいい、と微笑んだ。 ああ、私は今日も、彼女に生かされている。 |