「──……やあ」 玄関の前に立っていた男は帰宅した住人に気付くと、逡巡の後、片手を挙げて間抜けな声を出した。 は呆れたような溜息を吐いた。実際彼女は呆れていた。惚けた挨拶をしたきり黙りこくっている目の前の男は、去年別れた夫である。名を青木周作といい、武蔵野で開業医をしているが、賭け事好きが高じての再三の懇願にも耳を貸さずに借金を重ね、見兼ねた義父が直々にに離婚を勧めたほどの放蕩者である。 「何か用?」 「ああ、うん。いや」 周作の煮え切らない反応を見越していたかのように二、三頷いて、は鍵を探りながら、とりあえず中へ入って、と周作を促した。 リビングにはカーテン越しの淡い西日が差し込んでいた。キッチンに立ったがソファに身を沈めた周作の背を眺めながらコーヒーを淹れる間、薬缶から上る湯気と置時計の振り子の音が溶け合う以外、部屋は静かだった。 「先日は、どうもありがとう」 がリビングへ戻るなり、出し抜けに周作が言った。 「親父の葬式。ご焼香に来てくれてたよね。あの時は慌ただしくて、お礼も言えないままになっちゃってた」 ごめん、と頭を垂れた周作に、は当惑の視線を向ける。周作が頭を下げるなど、滅多にあることではない。 「お義父さんにはたくさんお世話になったから。それだけのことよ、別にあなたのためじゃない」 「うん、わかってるけど」 決まり悪そうに歯を見せて、周作は頭を掻く。 「親父も、喜んでたと思うよ。僕は出来の悪い息子だったけど、を選んだことだけは褒めてくれてたから」 は親父に好かれてたんだよな、と言って、周作はコーヒーカップを持ち上げ、飲むでもなくその漆黒を覗き込んだ。そんな周作を横目で眺めながらは、彼の訪問の意図を量り兼ねていた。よもや感傷に浸るだの思い出話に花を咲かせるためだけに、別れて一年も経つ女の家へのこのこ来りはしないだろう。だとすれば。 「お金は貸せないわよ」 探るようには言った。周作はふっと顔を上げて、一呼吸置いて、え、と息を漏らす。 「そんな、借金の相談じゃないよ、今日は」 「本当? まあ、でもそうよね、お義父さんの遺してくださったお金があれば、しばらくは困らないでしょう」 「手厳しいな」 周作は乾いた笑い声を立てて、コーヒーカップをテーブルへ戻すと立ち上がった。コーヒーの匂いが振り子の音と混じり合って、差し込む光がふっと陰った。日はもう大分傾いている。消えていく陽光に縋るように、周作は窓へと歩み寄る。 「君に、お礼を言いたかっただけだよ。もう一年も経ったんだ、いいじゃないか、たまにはこうして、何でもない話をする関係、っていうのも」 まるでドラマの台詞みたいだ、とは思った。しかしそう言って揶揄することはしなかった。言葉の淡々とした調子と裏腹に窓の端に残った金色の光を食い入るように見つめる周作の瞳の奥底にある感情を思って、は継ぐべき言葉を見つけられない。 周作の父親の死の真相について、は彼の病院に勤務する医師から手紙を受け取っていた。小林というその医師の名と、簡潔に綴られた手紙の内容──つまり、医療過誤が単なる偶然でなくその医師によって引き起こされたものであるという事実を知り、過去の悲しい出来事を思い出していた。おそらくそれを周作も知ることになるであろうということも、手紙には書かれてあった。ならば今、周作の胸中にあるものとは。 「僕は、医者になんかなるべきじゃなかったのかな」 ぽつりと、周作が言った。 「なりたくなんかなかったよ、医者になんか。そうじゃなくたって、もっと早く辞めたかった。でも親父が許さなかったんだ。それが全てだ。なのに」 抑揚に乏しい周作の声色が、俄かに起伏を激しくする。 「小林くんは、僕が自分で蒔いた種だって言う。刑事は刑事で、全部言い訳だって言う。辞めたいなら辞めれば良かったのに、そうしなかった自分を正当化するための、全部親父の所為にするための言い訳だって」 短い溜息が落ちた。 「昔から、僕は誤解されやすいんだ」 その言葉は今までのどれより感情的で、しかしどこか冷めていた。一番中心に近い部分で、彼は彷徨っている。 彼は昔から繊細な人だった。 誰より他人の感情の機微に目敏く、父親の期待を裏切るのが怖くて、母親の無念を捨て去ることもできなくて、ただがむしゃらに突き進んできた。医者でいることだけが彼と家族を繋いでいたから、その繋がりを絶つこと、周囲から見放されることに耐え切れないから、後ろ指を指されようと、医者の座から降りることはできなかったのだろう。気侭に振る舞っているけれど、それだって必死な自分を奮い立たせるための、彼なりの小さな足掻きだったはずだ。どうせ不遜な奴だとののしられるなら、いっそ本当に不遜な奴になればいい。そうやって自分を守るしか術を知らなかった人に、その刑事の言葉はまっすぐ突き刺さったのに違いない。それはさぞ、痛かろう。 「」 気付くと、周作はのすぐ後ろにいた。ソファの背凭れに肘をつくようにして屈むと、の髪を一束掬い取る。 「……いい匂いがする。シャンプー替えた?」 「周ちゃん」 は困惑した声を出したが、周作はかまわず彼女の首筋に顔を埋める。 慰めてほしいのだろう。もう頑張らなくていいと、そう言ってほしいのだろう。周作のまわりには、彼にそういう言葉をかけてやれる者がいない。不器用な生き方をして、彼の手の中に残ったものは孤独だけなのだ。 「……私は」 どうしたいのだろう。今ここで周作を受け入れ、よしよしと頭を撫でてやることは正しいのだろうか。彼はそれを望んでいるし、そうしてやりたいという気持ちもの中にはある。けれど。 「私は、あなたに医者を続けてほしい」 それがの本心だった。周作はゆっくりと顔を上げると、の頬をじっと見つめる。 光の糸の最後の一本が振り子の音を解いて、置時計が時報を打った。 「──帰るよ」 周作がそう言って立ち上がり、リビングから廊下を抜けて玄関を出るまで、は身動ぎもせずにいた。ドアの閉まる無遠慮な音に我に返ると、冷めきったコーヒーを湛えたカップが二つ、ちぐはぐな向きでテーブルに並んでいた。結局、周作はコーヒーに口を付けなかった。 両親にも友人にも同僚にも、誰にも理解されないでいる人を、世界中でただ一人だけが理解できるのだとしたら、そのただ一人は完全なる庇護者であるべきなのだろうか。正すべきものを正し、こうあってほしいと願う心は許されないだろうか。は周作に、ただ流れに任せて楽な方へと歩いてほしくなかった。彼がどんなに自分が医者であることを憂えていたとしても、は医者である周作が好きだった。たとえば快方に向かう患者へ向ける眼差しの優しさ、あるいはどんな些細な怪我人にも医療行為を行う者として接する姿、周囲も、彼自身でさえ気付いていない、医者としての周作を愛していた。だから。 「辞めてほしくない」 日はもう完全に沈んでしまった。夜の帳の下りた部屋で、は振り子の規則的なリズムを聴いた。 一度ずれてしまった歩幅は、もう元には戻せないかしら。 そんなことを思った。 |