「──……え」
抑揚のつけようもないほど短い音節が一度、漏れたきり、彼の口はぽかんと開いたまま何の音も発さない。
「だから、離婚してほしい、って言ったの」
別れてくれ、では分かりにくかったのかと思い、言葉を変えて、は自分の真意を伝えた。もっとも、全く予想外の出来事には思考回路が完全停止してしまうことの多い周作であったから、依然無言のままの夫を見兼ねて、は紙切れを一枚、差し出した。
「これ、書類、必要なところは書いて、判子も捺してあるから。それと、今日からしばらくホテルで過ごすことにしたわ。あなたの分も書けたら連絡して」
「ちょっと、待って、待ってくれ」
漸く動き出した周作の表情は、しかし感情が読み取れるほど狼狽した様子も見られない。何かの冗談だとでも思っているのだろうか。
「冗談は、止さないか」
「……呆れた」
は短い溜息をついて、周作に向き直る。
「どうして私がこんなこと言うか、わかる?」
「いや、まったく」
「ギャンブルは止めてってあれほどお願いしたのに、結局あなたは止めてくれなかった。危ないところからお金借りるのも、その返済が滞ってるのも、全部、お義父さんから聞いたわ」
「親父か。余計なことを」
「余計なことじゃないわ。お義父さんはあなたのことを心配して」
「これも、親父に言われたのか?」
テーブルの上の離婚届を掴んで、周作は少し、声のトーンを落とした。怒っているのだろう、とは気付いたが、小さく、頷いた。
本当は、もうずっと前から、周作の父親はに離婚を勧めていた。息子の不甲斐無さに憤り、陰日向に支えるを労ってくれていたが、君は君の幸せのために生きる権利がある、と言って、離婚後の就職先の世話まですると言ってくれた。そうした義父の心遣いに感謝しながら、それでもはまだ、心のどこかで周作を信じていたかった。けれど。
「私の名前で、お金、借りたって……本当?」
の静かな問いに、周作は視線を逸らしながら気まずそうにしていたが、やがて、ああ、と短く言った。最後の望みはいとも簡単に絶たれてしまった。
「……そう」
力なくソファの背凭れに体を預けたを一瞥し、周作は額に両手を当て、顔を伏せて深く息を吐く。
音の無い時間が、重く二人に圧し掛かった。
「──君が」
沈黙を破ったのは、周作の方だった。
「そう言うなら、僕は従うよ。それだけのことをしてしまったのは僕自身だ、君を苦しめてきたことに対する謝罪として、離婚に応じよう」
「え、」
「これは、僕が書いて役所に提出しておくよ。金銭面で何か不都合があれば、弁護士でも何でも寄越してくれ」
「な」
「引越しは、日取りの連絡をくれれば家にいるようにするから」
「もう、いいわ」
立ち上がったを、周作はゆっくりと見上げる。
「……それじゃあ」
「ああ」
十年近い結婚生活の終わりにしてはあまりにも呆気ない挨拶を交わして、は周作に背を向けた。
玄関を出てエレベーターに乗り込むと、一気に肩の力が抜ける。視線を落とした足元には、去年の結婚記念日に周作と二人で選んだ青いエナメルのパンプスが、蛍光灯の安っぽい光を受けて鈍く輝いていた。
それで、何だか泣けてきてしまった。