「スイス」
傅く男を見下ろして、は溜め息をついた。
「もう、顔を上げて」
その言葉には懇願の色さえ見える。肌の欠けた左腕を肘掛に置いて、掌に額を載せる。
「父上が今もご無事でいらっしゃるのは、あなたのおかげです。本当に感謝しています。あの方を失うことで世界中の、神を信じ、愛する者たちが陥るかもしれなかった果て無い絶望の未来は、あなたによって救われたのです」
泉の奥からひっそりと沸き起こる泡のような彼女の声は、灰色の石廊にゆっくりと響いた。それは、二人を取り巻いて沈みゆくような静寂を象徴していた。
「あなたに負わせてしまった傷の深さに、謝罪します」
「その必要は無い」
やっと、スイスは言葉を発した。は、依然平伏したままのスイスに、再び視線を戻す。
「ごめんなさいさえ言わせてくれないの? 無用な争いに巻き込んだ私たちを、怒っているのですね」
「違う。戦闘における負傷は、兵役を職とした時点で決まっていたことだ。そうではなく」
ぎり、と強く、何かを噛む音がした。
「守りきれなかった自分が、悔しいのだ」
スイスの、床についた膝の前に、真紅が滴る。唇を噛み切ったのだと悟ったは、椅子から飛び上がって彼に駆け寄る。
「傭兵を生業として、あなた方を守ると確約した。それなのに」
「スイス、あまり喋ると怪我に障ります」
「この惨状は何だ。街は破壊され人々は逃げ惑い、愛でられるべき芸術品は悉く略奪された。……だが何より」
絞り出される声の苦しさは、身体の損傷のためだけではない。
「……戦場に在って、部下を亡くすことがこれほど悔しいとは、思わなかった」
寸の間、は、スイスの震える肩に触れることを躊躇う。
冷徹なまでに職務を滞り無く全うすることに全霊をかける普段のスイスの内に、これほどまでの感情が存在していたことに対する、純粋な驚きがあった。
「何故、我輩は生きているのだ」
守るべきものを守れず、大切な者たちを亡くして、それでも生きているのか。
神に召されるならば、彼らの代わりに己が身を差し出せていたら、後悔などしなかったのに。
「──スイス」
ようやっと軍服の肩に触れ、は柔らかく、彼の名を呼ぶ。
「すべては神のご意思です。あなたは神に選ばれなかった、それだけのことです」
「それは……生き残った者の、都合の良い解釈に過ぎない」
「そうですね。しかし救いとは、常にそういうものです」
顔を上げたスイスは、を見つめた。その眼に宿る光は揺れ、困惑したようにも、憤っているようにも見えた。
「私もまた、選ばれなかった者の一人ですから」
の笑顔は、弱々しかった。かつての彼女に備えられていた類い稀なる美と気品も、決して揺らぐことのないように思えた神々しさも、この動乱に呑み込まれ色褪せてしまったのだということに思い至り、スイスは言葉を失くす。
幸福とはいったい、何であるのか。
救済とはいったい、何であるのか。
その問答は、差し詰め炎に溶けたコインのようだと思った。
どちらが表でどちらが裏か、もう誰にもわからないのだ。
それでも生きるのは、それが、神に選ばれなかった者たちに定められた道だからである。