「ねえ」
「何?」
「前が見えない」
抑揚の無い声で、は抗議を述べた。視界は先刻からずっと、真っ暗闇。当然だ、大きくて厚いロシアの両手が、彼女の両の目をすっぽりと覆い、塞いでいた。
ロシアのこうした悪戯は、よくあることだった。後ろからそっと近づいて耳に息を吹きかけたり、探し物をわざと見えにくくして相手の困惑している様子を楽しんだり。彼のそういう子ども染みたところが、どうしようもなく腹立たしくもあり、どことなくいとおしくもあるのだが。
「ねえ、手を、どけて」
「どうして?」
「これじゃ、前が見えないわ」
「そうだね」
はロシアを嗜めるが、ロシアはやんわりと曖昧な返事をするばかり。は小さく、溜め息をついた。
「ねえ」
「うん?」
「大きな音がするわ。外は大騒ぎね」
「ああ……うん、そうだね」
「窓も震えてる。ビリビリいってるわ」
「参ったなあ、君を世界から遠ざけるには、目だけじゃなく耳も塞がなきゃならないみたいだ。でも僕には生憎、そんなにたくさん手は生えてない」
「そうね」
ロシアは冗談を言ったが、の返事があまりに力無い肯定の言葉一つだけだったので、ふふっと笑い声を漏らした。
きっと今の彼は、初めて粉雪を見たときのように、無邪気に微笑んでいるのだろう。
だけれど、嗚呼。
「ねえ」
「うん?」
「…………血の匂いがするわ」
舌が上手く回らない。体中が強張っていた。恐怖が、に降り立っていた。
「大丈夫、はどこも、怪我をしてはいないから」
「悲鳴も、聞こえる。……ねえ」
震える指で、そっと、両目を覆うロシアの手に触れる。
「外で、何が起こってるの」
声が掠れた。
視界は依然、一面の黒だというのに、瞼の奥には怖ろしい光景の想像が広がって、戦慄のために体温が下がっていくのが解る。
ふと、耳朶に、あたたかな呼気を感じる。ロシアが、大丈夫だよ、と囁いたのだった。
大丈夫。
君は知らなくていいことだから、と。