伸ばしかけた手が、ゆっくりと元の位置へ戻っていく。
声を、掛け損なってしまった。
部屋には中国一人がいて、琴を爪弾いていた。中国の、すらりと長くきれいな指先からこぼれ落ちるように奏でられる音に息を飲んで、は廊下に立ち尽くしているしかできない。何か用事があったはずなのだが、そんな些細なことはどうでもいいとさえ思えた。
、何してるんだぜ?」
「──……し、っ」
不意に後ろから肩を叩かれて、は飛び上がって驚いて、唇に人差し指を当ててきっと振り向いた。
「静かにしてください! どうして上がって来たんですか!?」
が奥に引っ込んだまま、いつまで経っても俺を家に上げないからいけないんだぜ」
そうだった。例によって唐突に韓国が訪問したことを兄に告げるべく、は中国の部屋まで来たのだった。は決まり悪そうに、韓国から視線を外した。
「それは……すみません、けれど今、兄様は、その……お、お仕事の最中ですので」
「本当なんだぜ?」
「本当ですっ」
怪訝な目でをじろりと見つめる韓国の背を、ぐいぐいと押して、さあさあ、あちらでお茶でも淹れますから、と、中国の部屋から遠ざける。
お茶を淹れて点心を出してやると、韓国はころりと機嫌を直してそれらを平らげ始めた。ほっと安堵の一息をつくと、桃饅頭を頬張りながら、韓国が首を傾げた。
「何か悩み事でもあるんだぜ?」
「そうですね、強いて言えば、韓国さんがせめて来る時は連絡してくださるようになればなあ、と」
「カタいこと言ってると、兄貴に嫌われるんだぜ」
韓国としては、冗談のつもりだった。しかしその一言は、思った以上にを落ち込ませた。
「……そうですよね、どうせ私なんて、おカタいことしか言えない口煩い妹ですよね」
「え、や、そんなにショック受けるほどでも……ないんだぜ」
いつものように数十倍にして嫌味を返してくるものと思っていたの反応が予想だにしなかった方向へ行ってしまい、韓国は慌てて弁解を始める。
は、ホラ、……兄貴の仕事をいろいろ手伝ってて、偉いんだぜ」
「私がお手伝いできることなんて、兄様が苦労してらっしゃる十分の一にも満たないですよ」
「詩を書くのだって、上手いんだぜ」
「兄様の方が断然、お上手です」
「琴も弾けるんだぜ、琴を弾いてるは、すっごいきれいなんだぜ」
「……もう、いいです、無理に慰めてくれなくても」
余計落ち込んでしまったに、韓国はどうしたものか、と眉を下げた。
「でも……それは、本当なんだぜ」
齧りかけの桃饅頭を、そっと皿の上に置いて、韓国はぽつぽつと言う。
「そりゃあ、兄貴だって、仕事がんばってるし、詩を書くのも上手いし、琴を弾いてるときなんて、絵の中にいるみたいにきれいだけど……だって同じくらい、がんばってるし、詩も上手いし、琴を弾いてたら絵みたいにきれいなんだぜ」
だから、兄貴と同じところに立ってるが、俺は羨ましいんだぜ。
がちらりと、視線だけ韓国の方へ向けた。慣れないことを言った所為か韓国は、あーとかうーとか、言葉にならない呻き声を上げている。
同じところに立っている。私が?
「韓国さん」
「な、何だぜ?」
びく、と怯えたように体を震わせて、韓国は返事をする。その様が何だか可笑しくて、はちょっと、笑った。
「……ありがとうございます」
「へ」
「何だか、元気になりました」
穏やかにが言うと、韓国は拍子抜けしたような声で、そりゃあ、よかったんだぜ、と頷く。
「あ、でも、兄様の美しさには、誰も敵わないですからね、そこは大事なところですよ」
「ああ、まあ、そりゃあそうなんだぜ」
いつもの調子を取り戻したに、韓国が同意した。
そこへ、中国が姿を見せる。
「何やってるあるか」
「あ、兄貴! お仕事終わったんすか?」
「仕事? いや、我は」
「に、兄様! お茶を淹れます、点心も召し上がりますか?」
「ん? ああ、もらうある」
慌てて尋ねたに頷くと、すぐに用意しますね、と台所へ向かうの背中を見送って、中国はテーブルにつく。兄貴ー兄貴ー、と纏わりつく韓国に、そもそも何でお前がいるあるか、と眉間に皺を寄せながら、一緒になって桃饅頭を齧った。
中国の屋敷は、今日も平穏に、騒がしい。