「今日の公演は、皇帝がお見えになるんですって!」 開演を一時間後に控えた楽屋へ、息を弾ませながら駆け込んできたソプラノ歌手が、明るい声でそう告げた。楽屋内は俄かに騒然となる。 「すてき! 張り切って演奏しなくちゃ!」 「あらちょっと、いつもは張り切って弾いていないわけ?」 「そうじゃないけど……」 「何でもいいじゃない、ともかく皇帝に、今日の公演はとっても素晴らしかったって、思っていただけるような演奏をしましょう」 オーケストラの面々がきゃあきゃあと言い合っている。オペラの舞台ではオーケストラはピットに入って演奏するため、皇帝のお姿は拝見できないわね、と残念がっていた。 「その点、あなたはステージの上だものね、」 「いいわねえ」 口々に言われ、はふふっと愉快そうに鼻を鳴らす。 「今日はとびきり艶やかなロザリンデを演じるわ、皇帝に気に入っていただけたら、今後も見に来てくださるかもしれないもの」 いつもより念入りに化粧をして、ドレスも何度も鏡で直し、は舞台袖に入った。周りは皆、思いがけない高貴な客人の来訪に、浮き足立ってさやさやと言葉を交わしている。もう本番の十分前だというのに、緞帳の隙間からバルコニーを見上げたりしている者までいる。それら端役の踊り子たちを一瞥して、は、みっともないわね、と眉を顰めた。そして。 彼らの捲った緞帳の向こうに、輝かんばかりの一点を見た。 オーストリア皇帝はロイヤルボックスの中央に、黒の燕尾服に臙脂のウェストコートを着込んで、悠然と舞台を見下ろしている。その横に、同じくじっと座って開演を待つ男がいた。 「あらあ、オーストリアさんもご一緒なのね」 「すてきよねえ、今日も一段と優雅だわ」 踊り子たちのひそひそと囁き合う声から、彼こそがオーストリアなのだと知る。 「…………そうね、たしかに」 彼女たちのすぐ後ろまで歩み寄ると、驚いたように振り向いて、すみません、開演前に、と慌てる二人を尻目に、はほうと溜め息をつく。 「すてきだわ。なんて気品溢れる方なのかしら」 「あの……さん?」 主役級のソプラノ歌手の意外な行動に、若い踊り子たちは呆気にとられたようだった。だが、は気にも留めない。 彼女の頭には既に、皇帝よりもほかの数百人の観客たちよりもまず何より、彼への熱い想いを、これから始まる舞台に注ぐことしか無かった。 そしてこういうとき、公演はたいてい、大成功を収める。 何故かというと、恋がそれだけ、を輝かせるからだった。 |