「そちが参ったのは」 僅かばかり幼さを残した声色は、紙上を滑る筆の速さで、虚空に言葉を綴る。 春の日差しを織り込んだような御簾、金銀を散らした天の川の如き屏風。部屋を埋め尽くした調度はどれも目を見張るほどに贅の限りを尽くして仕立てられたものばかり、色の洪水のようなその空間の最奥で、きらびやかな錦の衣に包まれたは、脇息に凭れていた。 「わらわの目論見を暴く為、であろ?」 その口調は、戯れに和歌の上を投げ掛けられ、一時、思案して後、ふと下をくちずさむのに似ている。部屋へ通されてからどれほど経ったか、依然平伏したままの弁慶は、は、と短く、それに応答する。 「おそれながらこのたびの内親王様の源氏への御降嫁、まことにお目出度きことと存じ奉ります、が……些か、判断いたしかねる点もございました故」 くすくすくす、と忍び笑いをして、は右手を、つと挙げる。衣擦れの音まで、息が詰まりそうなほど、雅やかだ。 「たーのしそうじゃの、そうやって、いろいろと考をめぐらすのは」 白い指先は目の前の鞠に触れ、しばらく、ころころと掌中に遊ばせると、ほういっと放る。てん、てんん、と軽やかに、桃と朱の糸が複雑に重なり合った球体は転がって、弁慶の畳に擦り付けた頭を叩く。 「殊勝なことよ、武蔵坊」 きゃらきゃら、と、よく張った弦を素早く爪弾いたかのような甲高い笑い声を立てる。さすがは源氏一門、手堅き事巌の如し、とは、のう、よく言うたものよ、ええ、そうは思わぬかえ、と、脇に控えた女房に同意を求める。 「わらわが、……夫頼朝を謀る、とでも、お考えか?」 「いえ、滅相もございません。ただ……最近の院の近辺の動向にも、何やら不穏がございますようで」 「ほーお」 「万が一にも、平家の密偵の潜り込んだ可能性があっては、と」 「それは、そちの杞憂か」 「そうであれば、と願うばかりでございます」 「わらわが、院の娘だから」 「…………内親王様」 ゆっくりと、弁慶は面を上げた。まっすぐに自分を見つめるを、瞬きもせず見つめ返す。 沈黙が下りた。 「─────やはり、いけませんね」 破ったのは弁慶であった。相貌を崩すと視線を下げ、下げた先に転がっている小さな鞠を手に取った。 「軍師なんて仕事をしていると、「人」を忘れる。情も迷いも喜びも、悲しみも、憤りさえも蚊帳の外になって、碁盤を石の這うが如き心地になるんですよ。そこに心などない」 りん、と澄んだ鈴の音が、鞠の中でくぐもって、途切れた弁慶の言葉と言葉を繋ぐ。 「あるのはただ、夜よりも濃い闇だけです」 何故。は問いたかった。今、目の前に示された弁慶は、その昔、嵐山の祖父母の元で穏やかに暮らしていた自分が、「むさしぼう、むさしぼう」と兄のように慕った頃の面影を、たしかに残しているというのに。 何故、あの頃とは違って、こんなに遠い。 「…………それは」 それぞれの、護ろうとするものが違った。それの間の溝が深かった。それだけのことであると、理解もしていた。政治の道具にされるというのは、世を動かす道理を学ぶには手っ取り早い。父に感謝すべきは、そこだろうなと、は小さく、笑った。 「寂しかろ」 最早独り言のように呟かれた言葉には、存外棘が無くて、言った自身が驚いた。弁慶も僅かに、目を見開いてから、やがてやわらかく微笑んで、御前失礼、と言って、立ち上がる。 「そうでもないですよ」 「ほーお」 「私が選んで、決めた道ですから」 「ほ、ふふ」 「可笑しいですか」 「ふふふっ、可笑しい」 座したの脇に屈んで、その手を取って弁慶は、鞠を渡す。白い手はやわらかく、絹のように滑らかで、こんなに儚く美しいものが、刀や馬よりよっぽど、戦の情勢を左右するなど、悲しいことだと思った。 「のう、武蔵坊」 ふと袂を掴んだが、悪戯めいた笑みで弁慶を見上げた。その瞳は、雀を捕まえようと庭を駆け回っていた少女のそれと、何も変わっていないというのに。 「わらわは鎌倉殿を、謀るのか?」 「……そんなこと、私に訊いて如何するんです」 「わらわは父上がわらわを必要としてくれたことが、嬉しかっただけなのじゃ」 「内親王様」 「……のう、武蔵坊、わらわが、鎌倉殿を謀ったら、そのときは」 が笑っていてくれれば、それでいいと思っていた。そんな時はたしかにあった。 それなのに。 「そちがわらわを殺めてたも」 こんなに悲しい笑顔を、にさせている全てのものが憎いと思う。自分がその片棒を担いでいることに思い当たる。絡め取られた足元が、掬われていく。返答に詰まった自分を、彼女はどう思うだろうか、そんなことばかり考えた。 認めたくなかったのだ、軍師が、己の弱さに愕然とするしか術が無いなど。 |