彼女は世界で一番美しい楽器だ。
うっとりとステージに立つに見惚れながらキンブリーは、しかしこれはさすがに少々恥ずかしい、と思い直した。
言えばきっと笑われるだろうから黙っておこう、と決めたところで、店一杯に響いていたフェルマータが途切れた。歌い終えたは疎らな拍手ににこやかに応えながらステージを降りて、カウンター席に掛けたキンブリーの方へやってくる。
「あら珍しい、来てたのね」
「そう言わないでください、これでも忙しい仕事の合間を縫って、あなたに会いに来たのですから」
笑顔で嫌味たっぷりに言ったに苦笑して、キンブリーは賞賛の言葉を並べる。
「素晴らしいパフォーマンスでした。久々に聴くとまた、改めてあなたの声の美しさに気付かされる思いですよ」
「あなたって本当に、ご機嫌取りがお上手ね」
「ご機嫌取りだなんて、とんでもない! すべて私の本心です」
「まあ、だといいけど」
くすくす笑ったは、いいわ、久しぶりに来てくれて嬉しいから、許してあげる、と言った。マスターの差し出したウィスキーを受け取って口を付ける。大振りの氷がカランと低い音をたてた。
実際、場末のバーではあるが、この歌姫の歌を聴きたいが為に店へ通う客も少なくはない。財界の大物や軍の上層部にもファンがいるという話を聞いたこともある。なるほど、そういうスポンサーがいるから、この店はやっていけるのだな、とえらく納得したものだった。
しかし、そうであるとすれば。
──今、彼女が当たり前のように私の隣でグラスを傾けているように、当たり前のように他の男の隣で笑うのだろうか。
それは、そうなのだろう。そしてそのことで彼女に何か言えるような立場でないことは重々承知していたし、言うつもりもなかった。
それでもなお、自身の内に渦巻く感情に、キンブリーは名を付け兼ねている。
何だ、これは。
彼女は私に笑顔を向ける。会いたかったのだと言う。指を絡めれば、そっと握り返しさえする。そのどれもが、私だけに許された特別な行為でないというだけで、腹の底を蛇ののたうつようなこの感覚。
何だ、何なのだこれは。
ともすれば私は。
彼女の細い首に、鋭い刃を押し当てて……──。
「──……ゾルフ」
に名を呼ばれ、キンブリーは我に返った。常は愛や哀しみの詞に震える彼女の声が死への恐怖に甲高く掻き鳴らされる想像は、脳裏の深淵へと沈み込む。
「どうしました? まさかもう、酔ってしまったのじゃないでしょうね」
「ん、そうみたい」
「まったくあなたは、いつまで経ってもお酒が弱いですねえ」
微笑んだキンブリーは、肩に凭れ掛かるのゆるくうねる金髪を掬い取って口付ける。はくすぐったそうにふふふっと笑うと、キンブリーの耳に唇を近付けて、囁いた。
「今度はベッドで、あなたのためだけに歌ってあげるわ」
それはこの上ない贅沢だ、とキンブリーも笑う。
彼女の最期の歌声は、もうしばらくは我慢しよう、と思った。