思い切り天を振り仰いでもその頂点は夜の闇に吸い込まれるように高く上へと伸びていて、その直線を追いかけるように無数の部屋に灯った明かりが眩いばかりにきらめいている。壮大に聳えるグリーンクロスホテルの前に立ったは、この中で自分を待ち受けている運命に、ほんの少しだけ不安を抱きながら、一歩を踏み出した。
ロビーを入ると、左手側に並んだソファの一つから、見慣れた背中を探し出す。小走りになりながら近づくと彼の方でも気付いたらしく、立ち上がってを振り返る。
「シズマ博士、ごめんなさい、お待たせしてしまって」
「いや、私の方こそ、急に呼び出したりして済まなかったね」
微笑みながら言って、シズマはエレベーターの方を指し示す。
「最上階のレストランを予約しておいた。行こうか」
「ありがとうございます」
促されて歩き出す。ガラス張りのエレベーターに二人が乗り込むと、音も無く扉が閉まって、暗い海に星を鏤めたような街を、ゆっくりと浮き上がっていく。
シズマからへ、電話が入ったのは、ちょうどが仕事を終えて、所属するフォーグラー博士の研究室を出たときだった。
『今、ミュンヘンに着いたところなんだが、今夜、会えないかね』
フォーグラー、シズマを含めた五人の研究者が、彼らの共同研究の結果発見したエネルギー理論を、世界を動かす新しい機械動力として活かすため、そのエネルギードライブ化を進めている。そのための補助研究を、をはじめとするそれぞれの研究者の助手が行っているのだが、そろそろ本格的な開発計画が始動するらしいことは、師であるフォーグラーから聞いていた。そのために、シズマがフォーグラーの研究室を訪れるということも。
だが、明日の午後だと聞いていた。
忙しいはずなのに、わざわざ私に会うために、半日以上も早くこちらへ着いたのだろうか。
そうだとしたら。
きっと、切り出される話がある。
レストランに入り、通された席で、グラスを鳴らし合って、料理を楽しむ。大きく曲線を描いて一面ガラスを嵌め込んだ壁の向こうに、輝く夜の街があって、照明を限りなく引き絞った店内をぼんやりと照らしている。囁くようにゆったりと静かな音楽が空間を埋めていて、二人揃ってフランス音楽を好んでいたので、フォーレを選んだオーナーのセンスを褒め称えたりしながら、時を過ごした。
「すてきな夜」
食べ終わったナイフとフォークを置いて、はぽつりと言った。
「こんなに楽しい時間も、終わってしまうなんて」
このまま水飴で固めて、宝箱に閉じ込めておきたいくらい。そう言って、笑う。寂しそうなの声に、シズマはふと、口を噤む。
「─────君に」
どれほど経ったか、……おそらくは数分の後、シズマが、漸く口を開いた。
「言わなければならないことが、ある」
「……はい」
内容は漠然と、わかってはいたが、神妙な面持ちでは、シズマの言葉を待つ。
「ドライブの開発室を、新たに設けて、研究スタッフはそこに詰めることになった」
「はい」
「バシュタール公国に土地の借用の許可を頂けたので、現在、建設中だ」
「はい」
「スタッフは私とフォーグラー、トランボ、シムレ、ダンカン、それに各々二、三人の助手を連れて行く」
「はい」
開発室の設置も、それがバシュタールに置かれることも、スタッフの選出についても、皆、フォーグラー博士から既に聞かされていた。
フォーグラー博士が、自分の助手の中から、誰を連れて行くつもりなのかも。
「……フォーグラーは」
「学究とエマニュエルを選んだそうです」
「…………そうか」
あの二人の実力が自分より上であることも承知しているし、開発室勤務でないと言っても、ミュンヘンの研究室でも引き続きドライブ開発の補助研究を行うことが決定している。補助研究の対象である熱処理問題に関しては専門なので、自分が残ってこちらの指揮を執ることになるだろうと、予測もしていた。それにデータの受け渡しや研究の経過報告などで、開発室との往来ができないというわけでもない。
それでも。
「……私はいつも、肝心なことを行動に移すのが、遅過ぎる」
シズマの声が、悔しそうに言った。
「研究に感けて母親の病気にも気付かなかった。妻の気持ちが離れていると知りつつも、何もしないまま手放してしまった。いつもいつも、ここぞという時に、二の足を踏んでばかりなのだ」
困惑したように小首を傾げるに、シズマは、小箱を一つ、差し出した。
「あの……」
「もっと早く、これを渡したかった」
角の取れた立方体をした黒い小箱を開けると、指輪が入っていた。
「開発の成功には、どれだけの時間がかかるかわからない。一年か、二年か、……それ以上か」
言葉を失った様子で小箱を見つめているに、シズマは続ける。
「君はまだ若い。私のような男を待って、無下に時間を浪費する義務など無いし、私にそれを強要する権利も無い。もし君に本当に愛する男が現れたのなら、その男と一緒になった方が、絶対に幸せになれる。だが…………」
シズマはそこで一度、言葉を切る。困ったように微笑みながら、を正面から見つめた。
「愚かなことに、君の幸せを願いながら私は、君を手放したくないと思ってしまうんだよ」
自嘲の笑みでグラスを傾けると、シズマは、テーブルに置いていた指輪の小箱を、そっと手のひらに載せる。
「……済まない、はは、やはりこんなもの、買うべきではなかったな。何もかも遅かったのだ、今さら未練がましく…………」
「博士」
シズマの言葉を遮って、それまで黙っていたが、顔をあげる。
「ありがとうございます」
「……?」
「ありがとうございます、博士。私、嬉しいです、とても。こんなに……ちゃんと、考えてもらえていたなんて」
別れ話を切り出されるのだと、思っていた。親子ほども年が離れていて、方や世界が未来を託す研究者、方やその同志の助手の一人に過ぎず、傍にいられなくなるのなら、もう終わりなのだと思っていた。
「嬉しくて、私、…………嬉しいです、ああ、博士」
ぽろぽろ零れ出した涙を必死に拭いながら、はくしゃくしゃの笑顔をする。シズマは慌ててハンカチを差し出しながら、嬉しいのは私の方だ、と叫び出したい衝動を、抑えるのに必死だった。
自分でも誰かを喜ばせることができるなど、思ってもみなかった。私のような男の言葉を、泣くほど、嬉しいと言ってもらえるなど。
涙を拭ったは、窓の外を見遣って、微笑む。
「きれいな夜」
「ああ」
「でも、不安なことも、たくさん詰まってるんだわ」
「……ああ」
シズマに向き直ると、は、言葉を続ける。
「人々が安心して暮らせる夜を、つくることができるって、とてもすてきなこと。あなたになら、きっとできます」
「そうだろうか」
「そうですよ、だって、私が愛した人だもの」
の言葉は、心地が良かった。
小さく、声を立てて笑うと、左手を差し出すよう、促す。差し出されたその薬指に、指輪を嵌めてやる。
とても幸福な夜だ、と思った。