「とりっくおあとりーと!」
大きな観音開きのドアをノックしようとした瞬間、幼い声とともに何かが飛び出してきた。
「……まあ、このお屋敷にこんなかわいらしいおばけがいたなんて」
! いらっしゃい! ……おかしをくれないといたずらするよ!」
「それは大変ですね」
白い布を複雑に身体に巻きつけたこの屋敷の一人娘に満面の笑顔で飛びつかれて、もにこにこしながら懐を探る。
「すみません、こんなものしか……シャンハイショップのリンゴ飴です」
「わああ!」
真っ赤な包みの飴玉を二つ、小さな手のひらに転がすと、サニーは目を真ん丸く見開いて喜んだ。シャンハイショップは世界的に有名なキャンディを専門に販売する老舗店である。上海にしか店舗を構えておらず希少価値も高いが、二百以上という豊富な品揃えの中でも、リンゴ飴は一番の人気商品だった。
跳びはねて笑いながら庭に駆け出していくサニーを振り返っていると、後ろから声をかけられる。
、来たか」
「樊瑞様、ハロウィンパーティにお招きいただき、ありがとうございます」
「堅苦しい挨拶はそれくらいにしないか、今日は無礼講だ」
「はい」
普段の威厳はどこへやら、柔らかく言ったこの屋敷の主は言葉どおり、職場では常のピンク色のマントもつけず、カジュアルなシャツに濃紺のチョッキという出で立ち。上がりなさい、とを居間へ通した。
「おや、遅かったですね」
「今日提出の報告書があったもので」
居間ではイワンが、クッキーを並べていた。ワインセラーへワインを取りに行く樊瑞を見送って、はイワンを手伝う。
「アルベルト様はいらっしゃってないの?」
「中庭でジャック・オ・ランタンをつくってらっしゃいますよ」
「ご自分で?」
「サニー様を喜ばせてさしあげたいのだと思いますよ。……ご自分では、いたずらに来そうな悪霊の知り合いがいるから、と仰っていましたがね」
「まあ」
楽しそうに言うイワンに、も苦笑する。
ハロウィンは万聖節の前夜祭である。死者の蘇る前の晩に、悪い霊がいたずらにやってくる。だから、かぼちゃに怖い顔を刻んで魔除けにしたり、子供たちはおばけの仮装をして街を練り歩く。その際に大人にお菓子をねだるのは、ご愛嬌だ。
「……もう、一年経つんですね」
ぽつん、と言ったの言葉に、イワンがはっとして振り返る。
「まだ、信じられない気持ちだって残っているというのに、ね」
「…………
「これで、いいかしら」
半月形の白い皿に色とりどりのクッキーを並べたのを、はつとめて笑顔で、イワンに尋ねる。ああ、ええ、と惚けたような返事をかえしたイワンに笑って、はソファを立った。
窓に寄ると、白く滲んでいく空が足早に暮れていく秋の日を見下ろしている。
半分だけ開けた窓から入る風が、そよそよとカーテンを揺らす。
木立ちを揺らす。
雲を流していく。
ゴオ、と。
俄かに、風が強く、唸った。
「─────……きゃ」
思わず目を瞑る。顔を覆った左腕に、何かがぶつかった。
こつん、とそれが床に落ちた音がして、屋敷には、何事もなかったかのように元の静けさが戻る。
「……今の風はいったい」
「…………これ」
訝しむイワンには答えず、は、足元に転がっていた赤いものを、かがんで拾い上げた。それは、シャンハイショップのリンゴ飴だった。
ぱたぱたと廊下を駆けてくる足音がして、サニーが居間へ駆け込んできた。肩で息をする彼女は、ひどく驚いた様子で、あの、あのね、と言葉を詰まらせる。
「どうしたんです、サニー様?」
「今、そこで……セルバンテスおじさまに」
目を丸くして、きらきらと輝かせて、サニーは庭の方を指差す。
「大きく、なったねって、仰ってたわ」
「サニー様」
「お父さまや樊瑞おじさまやイワンや、も来ているから、いっしょにパーティしましょうって、言ったのだけど、……振り返ったらもういなくて」
「……サニー様」
かがんで、サニーの肩に手を置くと、は問うた。
「リンゴ飴、いくつ持ってらっしゃいますか」
「え。……さっき、にもらった二つだけよ」
きょとん、として答えたサニーの言葉に、は、手のひらの赤い包みをそっと、握り締める。
「…………ほんとに、いたずらに来ちゃったんでしょうかね」
「……さあ……だとしたら、アルベルト様は骨折り損ね」
涙もろい友人の精一杯の強がりな発言に苦笑しながら、イワンはそっと、にハンカチを渡した。


もし、今夜一晩だけ、何かの奇跡が起きたのだとしたら。

私はあなたに愛されていた部下だったのだと、信じていいのでしょうか。