グリーンクロスホテル最上階のスイートルームから眺めるミュンヘンの夜景は、さながらプラチナを散りばめた宝石箱を覗き込むようだった。
BF団の任務とはいえ、このような贅は滅多に味わえるものでもないということを、は疾うに知っていた。だから照明を落とし深く沈み込むベッドに掛けてうっとりとこの極上の夜を堪能していたところを、不意に鳴った来訪者を告げるブザーに邪魔され、少し不機嫌になりながらインターホンの受話器を上げた。
「はい」
『私です、レセプションから本日のパーティのために寄せられたカードをお預かりして参りました』
「あら、ありがとう」
ドアを開けると、白や桃やのカードを山ほども抱えたオズマが、失礼します、と腰を折ってから部屋へ入ってきた。
「ずいぶんたくさんね」
「ミュンヘン市長、市議会議員の方々、大学理事会、総合病院医師会、州立歌劇場支配人からもいただいております」
「大したコネだこと」
溜め息混じりに言って、はその内の一枚を、ピッと抜き取る。
「そのカードは」
「アルベルト様からね」
一瞥して、顔だけは売っておいてやった、しくじるなよ、との走り書きのみであるのに、さらに溜め息を積み上げる。カードを再びオズマへと戻すと、これらはどうされますか、と訊かれ、あげるわ、と素っ気無く答えた。
晩餐会での要人暗殺、本来ならば十傑集衝撃のアルベルトの仕事であった。それを「下らん」の一言で一蹴し、盟友セルバンテスとともに豪華客船で暴れまわる方が面白そうだと、さっさとそちらへ加勢に行ってしまったものだから、アルベルトの補佐官であるイワン一人が作戦参謀諸葛亮孔明の盛大なお小言を食らわされる羽目になってしまった。どうか代わりをお願いできないか、とのところへ依頼を持ってきたイワンが、そよ風でも吹こうものなら灰のようにさらさらと消えてしまいそうなほどの消沈ぶりだったので、見るに耐えかねて、引き受けたのだった。
「ときに、様」
C級エージェントを統率する立場にあるオズマは、正装である黒頭巾を被ってはいたが、その上からかっちりとスーツを着込んでいる。カードの山をサイドボードに置くと、くい、と蝶ネクタイを直し、なあに、と返事をしたに、すいと近寄った。
「今日は一段とお美しい」
また始まった。はうんざりしながら、溜め息の上塗りを重ねる。オズマは、仕事は確実だが女たらしなことで有名だった。
「普段の白衣姿ももちろん、あなたらしさを引き立ててはおりますが、今宵のあなたの、その優雅なドレス姿は、新鮮な感動を私に与えてくれましたよ」
「あらそう」
気の無い返事のにも、オズマはめげない。淡い紫のシルクがゆるくドレープを描くの胸元に、舐めるような視線を這わせた。
「どうです、今晩──っ、と」
オズマが半身をずいっとに近づけたところで、コンコン、と控えめなノックが鳴った。、私です、と、イワンの声がする。
「今日の作戦について、孔明様より連絡が……おや、オズマ、何をしている」
「いえ、何も。カードをお届けしただけですので、私はこれで」
首を傾げるイワンを他所に、オズマはそそくさと部屋を出て行く。ぽかんとした顔でそれを見送ったイワンに、はくすくすと笑った。
「何だったんですか、今の」
「さあね、よっぽど暇なんでしょう」
可笑しそうに言ったに、イワンは、はあ、と歯切れの悪い返事をかえす。の心の中でふと、小さな悪戯心が首を擡げた。
「それより、ねえイワン、どうかしら」
「は……何が?」
「ドレスよ、似合ってる?」
言って、はちょっと、ドレスの裾を摘みあげてポーズを取った。イワンがそれをしげしげと眺める。
「ええ、似合っていますよ」
「それだけ?」
「え? ええと……ショールを羽織ると、より気品溢れて見えるかと」
イワンの答えに、はふふっと笑う。
「こういうのって、育ちの良さが出るのかしら」
「はあ?」
「何でもないわ。さ、そろそろ行きましょう」
にこにこしながらは、頭上に疑問符を浮かべたままのイワンの背を押して、部屋を出る。
イワンはイワンでよかったわ、と思いながら。