「……平穏な休日に自室内で起こり得る惨事じゃないわ」
それがの第一声だった。
無理もない。ちょっと困ったことになったから手伝いに来て欲しい、との連絡を受けて赴いたイワンの居室は、竜巻でも発生したのかと思うほど荒れていた。ソファは仰向けに転げ、四肢を投げ出したテーブルがキッチンに突っ込んでいる。フローリングにはぶちまけられたコーヒーがマーブル模様を描いており、そこへ無造作に散ったカップの破片が鮮やかな白を添えている。寝室のドアは閉まっており中の様子は窺えないが、僅かな隙間から縒れたシーツのはみ出ているのを見るだに、まずまともではないと思っておいた方が後々気は楽であろう。
「すみません、あなたは仕事だというのに」
「今日は樊瑞様も休暇中で、特に急ぎの仕事もないから大丈夫よ。それより、一体何が?」
「……アレです」
げんなりと肩を落としながら、イワンは力なく窓の方を指差した。
「──あら、ムカデ」
「何とか退治したのですが、この有様です」
意外とすばしこくて、と決まり悪そうに言い訳するイワンに、は一瞬ぽかんとして、それから鬼の首でも取ったような満面の笑みを浮かべる。
「イワンでも、虫一匹に手こずったりするのね」
「何です、嬉しそうに」
私だってしくじったり上手くいかないことくらいありますよ、と投げやりな言い方をして、イワンはふいと顔を逸らす。誰にも言い触らしたりしないわ、ただ、そうねえ、パリに新しく出来たっていう美味しいケーキ屋さん、今度行ってみたいわ、などと妙に明るい声を出すは、完全にこの状況を楽しんでいる。イワンは深いため息をついた。
「……奢りますよ、モンブランでもタルトでも、好きなだけどうぞ」
「ふふっ、楽しみにしてるわ。……あら」
にこっと笑ったはふと、イワンの右腕に目を留める。
「怪我してるわ」
「え?……ああ、本当だ」
の視線を辿り自分の二の腕に目を遣って、イワンは事も無げに同意した。シャツの半袖から覗く肌がざらりと大きく掻かれている。大方ソファを退かしたときにでもどこかへ擦ったのでしょう、と冷静な分析を加えるイワンを他所に、は見せて、とやや強引にイワンの腕を掴んだ。
「大丈夫ですよ、このくらい」
「化膿したら厄介よ」
「大袈裟ですって」
「いいえ、処置します。私が医者で良かったわね」
消毒アルコールとガーゼくらいは常備してるわ、と何でもないことのようにはポケットから応急セットを取り出す。ほら、上脱いで、と急かされ、イワンは渋々に従う。
「十人ニ十人相手取って一人で銃撃戦だってできるくせに、こんなことでこんな大きな傷作るなんて」
「だから言ったでしょう、私だって人間なんですから、これくらいの失敗は」
「もう二度としないでよ」
イワンの苦言に返したの言葉は、先ほどのからかうような口調とは打って変わって、語調の強いものだった。
「悔しいじゃない、私だって勝てないのに、たかが虫一匹にしてやられるなんて」
アルコールを含ませたガーゼで丁寧に傷口を拭いながら、は眉間に皺を寄せる。悔しいじゃない、そんなの、と繰り返して、手を止めて。
そっと、その傷に唇を寄せた。
「──
「私のためにも」
もう二度と怪我しちゃだめよ。

私以外の何かがあなたを汚すだなんて、絶対に許さない。