目の前に佇む女を、私はたしかに知っていた。 栗色の長い髪がゆるくうねり、白い頬はふっくらと優しく笑む。いや、それは、先刻までの話。 彼女の瞳の奥底に、闇が目覚めつつある。眠っていたのではない、眠らせていたのだと、やっと気付いたところで、女が口を開いた。 「我らが主はたいそう悲しんでおられました」 「あ……主」 「ご存知のはずです、あのお方が、あなたを買っておられたことを」 「それは……しかし……」 「病がちな奥様と生まれたばかりのお嬢様を連れて、学会を追われ、明日をも知れぬ日々に一家心中まで考えた……そんなあなたに、あのお方が救いの手を差し伸べられたのはなぜか。あなたは初めから、お分かりだったのでしょう」 女の口調はあくまで淡々と、ものの道理を子どもに説いて聞かせるような様子である。有無を言わせる隙など、微塵もない。 「わ、私は」 それでもと絞る喉から出たのは、まるで喘ぎ声である。女の視線が柔らかく私を射る。呼吸を許されぬ感覚。 「今さら善人ぶるつもりなど無いのだ、ただ、私なりの遣り方で、組織のためを思って」 「それは、あなたには必要の無い思考です」 女はふうと春風のようなため息をつき、コーヒーに口をつけた。ゆっくりとした動作で香りを愉しんでから、ソーサーへカップを戻す。斜向かいに違いで置かれた私のカップに、小さな波紋が浮かび始める。 あの日──世界屈指の科学者と褒めそやしてきたはずの世間から、大きな手のひら返しを食ったあの日から、私は私を裏切った顔も知らぬ幾億の者たちへと復讐するためだけに生きてきた。そのためには世界征服を目論む悪の秘密結社さえ、利用してやっているつもりでいたのだ。その気になれば、いつでもこちらから裏切るつもりで。 それが思い上がりだと、気付いたときにはもう遅かった。私は怖くなった。私より数年後に組織へ参入した若い科学者たちは、いずれもその眼に狂気を宿し、私の思いもつかないような残酷な結果を欲し、実際にそれを成し遂げていった。ちがう、私が脳裏に描いた復讐は、胸に抱いた憎悪は、そんなに醜いものではない。 私の甘えた怯えを、組織が見逃すはずも無いだろうことは承知していたが、こうも早く事が動くとは思わなかった。常ならば灯りのともっている時刻の帰宅に、待っていたのは真っ暗な我が家と、妻と子の笑顔の代わりに、組織との連絡役である、この女一人だった。 「私は、いい」 もはや細く絹糸一本ほどしか遺されていない気道をわずかに伝って、声になるだけの息を出し入れするしか、私にできることはない。 「妻と、娘は、どうか」 女は微笑とも呆れともとれる顔でじっと私を見つめている。腹の底からするすると、絹糸が静かに抜き取られていく。 「──……こ、コーヒーに、何を」 「特に、何も」 女の言葉はどこまでも淡白である。むしろ、私との問答にはすでに厭きてすらいる様子でもある。身体の震えが止まらないどころか顕著に、激しくなるばかりである。私はもうきっとすぐにでも、この毒で死ぬのだろう。 「次にあなたに会いに来るのは、奥様ですよ」 「……え」 「奥様はあなたを見て驚かれるでしょうね、警察と救急車をお呼びになる。けれど彼らには、私がここに居たことの証明はできません。あなたが思うようなものも、コーヒーからもあなたの身体からも検出されない」 私の思考を透かすように、女は視線で私を舐める。喘ぐ声すら、今の私にはもう遺されていない。 「先生は、誰の手にも因らず、ごく自然に、天に召されるのです」 嗚呼。 それで私は、己れの生の総てが了ったことを悟った。満ち足りた絶望が顔に浮かび、ゆっくりと瞳を綴じる。 そして、二度と開かなかった。 「──我らの、ビッグファイアの為に」 * 「おや、お早いお戻りで」 屋敷を出ると、イワンが片目を上げて驚いて見せた。 「首尾よく逝きましたか」 「ええもちろん。実につまらない仕事だったわ」 イワンの軽口に、は苛立ちを隠そうともしない。露骨に眉を顰めながら、離反者の粛清なんて聞こえは良いけれど、あんな逃げ腰の老い鼠の始末なんて、まったく本当に必要だったのかしら、とごちる。 「しかし、拳銃やナイフどころかお得意の薬物すら持たずに行くものですから、驚きましたよ」 「マフィア映画や推理ドラマじゃないんだから、殺してしまっては意味がないわ」 「はあ……?」 の言葉の意味をはかりかねて、イワンは珍しく呆けた声を出す。 「本当の暗殺は、ただ、対象の死ぬ理由を、目の前に提示するだけでいいのよ」 それはにしかできない芸当だろうとイワンは思ったが、口に出すことはしなかった。 それからしばらく頬杖をついていたが、やがては少し声をやわらげ、時間も空いたことだし、お茶して帰りましょう、と言って、ほほえんだ。 |