休日のは、決まって九時半に起き出してくる。
その日も寝乱れた着物を引き摺って、とろんとした声でおはよう、と言ったに、ハナも、姐さんおはよう、と返した。
「ご飯もらってこようか」
「うん、お願い。シャワー浴びてくるから」
のんびりと欠伸しながら居間を横切って、シャワールームへ消えたを見送ってから、ハナは母屋へ二人分の朝食を取りに向かう。
小萩屋は二階建ての長屋作りで、一階に大座敷が三つと勝手、帳場などがあり、二階には常連客用の小さな座敷が七つほどある。抱えの遊女は離れにそれぞれの個室を持っていて、各々に禿が一人付いて、サポートをする。ハナはもう二年ほど、とここで暮らしている。
勝手に顔を出すと、調理の者はちょうど出ているらしく、見習いの少年が気付いて、さんのとこだろ、と言って腰を上げた。の分とハナの分の膳をそれぞれ一つずつ持って部屋へ戻ると、少年に礼を言った。
それから、シャワーを浴びてきたと二人で向かい合って朝食を摂る。今日の味噌汁の味を品評しあって、玉子焼きと里芋の煮付けを交換し、ハナがご飯を食べこぼすのをが軽く叱って、最後に熱いほうじ茶をすすっていると、勝手の少年が膳を下げに来たので、片付けるのを手伝った。
「さてと」
再び部屋へ戻ってきたは、ハナの方を振り返って、にこりと笑顔になる。
「おでかけしようか」
「ほんとー!? どこどこ!?」
「ひばり通りの毛糸屋さん。編み物、教えてあげる約束だもんね」
「やったー! ハナね、帽子を編みたい、黄色いの」
「じゃあ私は桃色にしようかな」
大はしゃぎで支度を始めるハナに笑顔を絶やさず、は壁に掛けていた外套を取った。薄手の白い生地に淡い橙の糸で牡丹の縁取りを刺繍した、清楚で上品な柄が気に入って買ったものだ。ハナと連れ立って店を出たとき、不意に小路を抜けた風に、これでは寒いかな、と少し思ったが、外套を換えるためだけに戻るのも億劫な気がして、そのまま歩き出す。
毛糸屋までは、歩いて十五分ほどの道程である。帰りは少し寄り道して、あんみつを食べていこうか、と話しながら進んでいると、ふと、往来の中の人影に目が留まった。
知っている人のような気がする。
「───あれ、こないだカワラザキのおじさまと一緒に来たお客さんだね」
客の顔と名前は、遊女よりもお付きの禿の方がよく覚えていることがある。あら、そうだわ、とは記憶を手繰る。
「あの、樊瑞様?」
道の角に立って、何か思案気にうろうろと行ったり来たりを繰り返す背中に、声をかけると、その人物は飛び上がって驚いて、を振り返る。
「あっえっ………、殿、お、お久しぶりです」
「お久しぶりです、奇遇ですね、こんな街角で出会うなんて」
柔らかく微笑むと、樊瑞はしどろもどろしながら、いや、まったく本当に、奇遇ですね、こんなところで、ばったり、偶然、出会うなんて、と言った。
「お買い物、ですか」
「ええ、この子に編み物を教えてあげようと思って、毛糸を買いに。樊瑞様もご用事でこちらへ?」
「あ、はい、いえその、執務室のコピー用紙が切れてしまって、すずめ通りの文房具屋が、品揃えがいいと聞いていましたので……部下に行かせても良かったんですが、たまには自分の足で歩くのも、健康には良かろうと思いまして」
「素敵な心がけです。樊瑞様のような方が上司で、部下の方もきっと鼻が高いことでしょうね」
「いえ、そのような……」
照れたように頭を掻いた樊瑞の視線と、の隣でにやりとしたハナの視線とが不意に、ぶつかる。
瞬間、樊瑞は凍りついた。
よもや。
……バレてはおるまいな、まさか、このような小娘に。
「姐さーん、はやく行こう」
「ハナちゃん、あら、引っ張っちゃダメ」
「あんみつ食べる時間、なくなっちゃうよ?」
仕様が無いわね、と苦笑して、は樊瑞に向き直る。
「すみません、それでは……また、お店の方にもいらしてくださいね」
申し訳無さそうに微笑んで、ぺこりと頭を下げたに、樊瑞は、いえ、はい、いやあの、是非、と慌てて言った。そしてちらりとハナの方を見遣ると、小生意気なにやにやした目が「姐さんに会いたかったらお店にお出で」とでも言っているように見えて、少し、口元をひくっとさせる。
ひう、と一陣、寒風が吹き去った。あ、と樊瑞は思った。
殿、……それでは、お寒いでしょう、これを」
咄嗟に、自分で巻いていたマフラーを外して、の首に掛けてやる。
「え……しかし、樊瑞様が」
「大丈夫です、走ってでも帰れば身体もあたたまります」
「まあ、でも」
「いいんです。使ってください」
「……では、お借りしますね。ありがとうございます」
一生懸命な様子の樊瑞にくすくすっと笑って、は礼を言う。もう一度、頭を下げてから、ハナの手を引いて、今度こそ毛糸屋の方へと歩き出す。
「───……今度、マフラーを返していただきに、お店にうかがいます!」
その背中に向かって、叫んでいた。
の微笑みに逢えて、マフラーよりもっとあたたかいものをもらった気がしていた。



「姐さん」
「なあにハナちゃん」
「……んー、何でもない」
樊瑞が十中八九に惚れていて、一目逢いたいがためにこの辺りをうろうろしていた可能性など、伝えなくてもよいことか、と思い直して、ハナはふるふると首を振った。
そして軽くスキップしながら、そろそろ見えてきた赤い屋根の毛糸屋に、思いを馳せることにした。