「―――……西市街、ですか」
ぽかん、としてそう返した樊瑞に、カワラザキはにこにこと頷いた。
「おまえさんは日頃からよく働き過ぎるくらい働いとるからな、たまにはどうだ、息抜きでも」
「はあ……しかし、西市街は、その……色街、では」
この予想どおりの煮え切らない返答がおかしくて、カワラザキは恰幅の良い体を揺すった。仙術を修めるために幼い頃から男所帯の山奥で暮らして来た樊瑞は、どことなく女性を遠ざけるような振る舞いをすることがある。もうすぐ三十になるというのに家庭を持つどころか女っ気も無いままでは、とカワラザキが気を回し、この誘いに至った。
「何、わしの行きつけの店だよ。女将と顔馴染みでね、この辺りじゃあ老舗の名店で、新規の客は店の子か常連の紹介でないと取らないところだ」
「……そのように高級なところへ、私のような野暮ったい男が行きましても」
「はっは、店の子らはそんなことを気にはせんよ。おまえさんの良いようにしてくれるだろ」
「……しかし」
「今夜七時に、もう予約してある。……樊瑞」
「……………」
笑顔こそ絶えないが無言のプレッシャーを載せて名を呼んだカワラザキに、樊瑞はそれでもしばし、逡巡する。
「……わかりました」
小さく、溜め息をついて承諾を伝えた樊瑞の肩を、カワラザキは愉快そうにぽんぽんと叩いて、では六時半にロビーで待っとるぞ、と言った。



数時間後、樊瑞は些かの緊張感とともに、白木造りの引き戸の前に立っていた。
ブランド志向というほど偏ったものでもないが、カワラザキが身辺に配る気遣いは彼の品格から自然とそれ相応なものが揃っている。スーツも腕時計も万年筆も、ひけらかされなくともどれも一級品であることくらい、一目瞭然なのだ。そしてそれが必ずしも、自分に与えられたときに同じだけはそぐわないこともまた、樊瑞は理解していた。
カワラザキの配慮は、有り難い。自分のような不器用な人間にも心を配ってこうして世話を焼いてくれることは、嫌ではなかった。ただ、それに自分が釣り合わないことを申し訳なく思い、そのことにせめてカワラザキ自身が気付いてくれたら、と焦燥のようなものを感じていた。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
“小萩屋”と綴られた暖簾をくぐると、両手を揃えて膝の前についた和服姿の女性が二人を出迎える。
「二階のお部屋をご用意させていただいております。さ、どうぞ」
靴を脱ぐと、玄関からすぐの階段を仲居に付いて上がる。よく磨かれた床板が黒く輝いて静かで落ち着きのある風情に、カワラザキの背中を見ながら、やはり似合う、と心の中で溜め息をつく。
「こちらです」
日本家屋独特の、少し天井の低い二階の廊下を階段から折り返して、右手側の奥から二番目の部屋へ通された。
八畳の部屋に膳が二つ用意されていた。床の間には一抱えもある青磁の壺に紅葉の枝が飾られ、おそらくは膳の内であろう、香り立つ松茸の匂いと相俟って、秋を贅沢に演出している。慣れた手つきで上着を脱がされ、席に着くと、酒が運ばれてきた。
「カワラザキさま」
「おお、明満。久しぶりだな」
「ま、あんまり来てくださらないんだから。寂しかったんですよ」
深みのある古代紫の着物に身を包んだ女性が、朗らかに笑いながら二人の間に座った。
「はは、驚いたろ。まだ若いが、ここの女将だ。明満、わしの同僚でな、樊瑞という」
「明満でございます。お噂はかねがね。お話に聞いたとおりの、真面目そうな方ね」
「あ、いえそのようなことは……樊瑞と申します。あの、こういったところは初めてでして」
「ま、そう硬くならずに。今日はゆっくり、寛いでってくださいまし」
ふわふわした、綿菓子のような笑顔で言われて、樊瑞は、はあ、と頷くことしかできなかった。自分の言葉が卑屈だったように思えて、少し気恥ずかしいような気分になった。
女将のほかにニ人、席を囲むように座って、それぞれに銚子を差し出したり、膳を整えたりしてくれる。普段食べ慣れない料理ばかりであることはもちろん、自分でできるようなことまで誰かにしてもらうというのがどこか落ち着かなくて、あたふたした。
です。まずは一献、如何ですか」
「あ……頂きます」
「そんなに畏まらなくて良いんですよ」
くすくすと笑いながら、と名乗った女性が銚子を傾ける。両手で支え持つ指がすらりと細く長く、しなやかに銚子に宛がわれているのを、美しいなと思った。
「お酒は普段からよく飲まれるんですか?」
「あ、いや、独りだとあまり……気が向いたときに少々、程度ですな」
「じゃ、今日は思い切り楽しんでいただかないと」
にこ、と笑う。彼女の笑顔は、木漏れ日のようだな、とふと思った。瞼に、ちらちらと揺れる。
酒も料理も最高だった。
程好く酒の入ったカワラザキは、よく笑い、よく喋った。そういえば職場の人間と仕事以外の話をしたのは初めてだ、と気付く。カワラザキの趣味が釣りだなどとは、知らなかった。先週の休みにも渓流釣りに出掛けたのだと語る彼の笑顔が、新鮮に映る。
「きみも、今度は一緒にどうかね」
「いいですね、私も興味はあったのですが、なにぶんこの年から何か始めるとなると、なかなか」
「そう難しく考えることもないぞ。肝心なのは、楽しむことだからな」
「まったくですわね」
朗らかな笑い声に、樊瑞はここへ来てすぐのころよりも大分、肩の力の抜けてきた自分に気付く。
「お若いころは山にいらしたんでしょう? それなら、きっと勝手もすぐにわかるんじゃないかしら」
「そういうものですかね」
「ええ、素敵。お二人で行かれたらぜひ、釣れた魚を持っていらしてくださいな」
「あら、それはいいわね。お台所で捌かせて、召し上がっていただきましょ」
「はっはっは、こりゃ随分と期待されたもんだ。頑張らんといかんな、樊瑞」
「はは、初心者ですので、お手柔らかに」
つられて笑いながら、良いようにしてくれるだろう、と言った昼間のカワラザキの言葉を思い出していた。
プロの仕事なのだ。自分自身でさえ扱い兼ねていたかたくなさを、知らずに解いた。それは最高の料理であり、酒であり、彼女たちの笑顔であり、やわらかな会話であった。
樊瑞は視線だけでちらりと、隣で微笑むを振り返る。
女性が嫌いなわけではなかった。苦手だと思うほど接したことすら無く、全く別の世界に生きているモノのように感じて、無意識の内に距離を置いていた。
こんなに自然と、自分の領域に受け入れられる存在だなどと、思いもしなかった。
それとも。
彼女が特別なのか。
「───樊瑞さま?」
小首を傾げたに、不思議そうに呼ばれた。ああ、すみません、と慌てて言って、決まりが悪くてぐいと杯を煽った。
この夜が更けるなら、せめて時はゆっくりと流れれば良いのに、と思った。