私は、彼女を知っている。
燦々と陽光の降り注ぐオルセー美術館の回廊、名を呼べば振り返るほどの距離に、彼女は立っていた。かつての彼女が愛した絵画、その瞳の先にも、ミレーが飾られていた。そう、今と同じように。
長い。
あれから、長い年月が過ぎた。
そしてそれは、言い尽くせないほど大きな隔たりとなって、二人の間に横たわっている。この、たった十数メートルの間に。
パリは穏やかな昼下がりに、春を待ち切れない大気がうずく陽気である。こんな日に独り、私の脳裏に去来する、暗く淀んだ陰惨な記憶と感情とが入り混じる。もう会うこともないと思っていた。その事実が、私を復讐へとのみ駆り立ててくれていたというのに。
神よ!
私はそう叫んで、脇目も振らずこの場に伏して、泣き喚いてしまいたかった。或いは彼女を抱き寄せ、エマニュエル・フォン・フォーグラーは生きていると、告げてしまうのも良いと思った。
だが私は私自身を思い留まらせねばならない。この身が何のために滅びなかったのか、知らないわけではない。私を拾ったあの奇特な策士が言うまでもなく、私は私のためでなく、殺された真実の上に立つ繁栄に安住するすべての者へと復讐するために、生き永らえたのだから。
コツ、と一歩、彼女との距離を縮める。一つ、小さく呼吸をつくと、声をかけた。
「ミレーが、お好きですか」
肩を流れる髪を揺らして、彼女は私を振り返る。
「ええ。毎週のように通っているんですけど、いつもここで足を止めてしまうわ」
「わかりますよ。本当に良い物は、毎週、いや、毎日触れたって、厭きることはない」
少し驚いたような顔をしながらも、微笑んで答えた彼女に、柔らかく微笑み返す。
「─────……私の、旧い友人も、ミレーが好きでした。とても静かな絵だと、だがとても、あたたかい絵だと、言っていた」
あの頃に、もう戻れないということが、いったいどういうことであるのか。とうに理解していたはずであったことを、まるで初めて気づいたかのような衝撃を以って、改めて、思い知らされた。悲しさとも憤りとも取れぬ感情が渦巻いて、私の身は打ち震える。
「……わかります」
彼女が、吐息のような声で、言った。
「その方とは、今は?」
「…………もう、会えないのです」
「そうですか……とても、寂しいですね」
目を細め、眉を下げた彼女の言葉は、私の頑なな心を撫でていったように感じた。
そうだ。
これが、寂しいということなのだ。
「あの、私、と申します。あなたのお名前は?」
「私は、……幻夜、といいます。……よろしければ、またお会いできませんか」
私の急な申し出に、彼女はくすくす笑いながら、私も今、そう言おうと思っていたところです、と頷いた。
私たちは、今日、出会ったのだ。
それでいいじゃないか。
彼女につられて微笑みながら、そう、思った。


たとえ、何も知らないまま笑い合えたあの日々が、もう戻らなくても。