他愛無い言葉をいくつ並べたところで、この胸の洞が埋められることなどないと、わかっていて、肝心なことは何一つ言えない。 白無垢の眩さに目を細めながら、水田は、にかけるべき最後の言葉をあぐねていた。 「──千一、何か言って」 堪り兼ねたように苦笑して、は上目に水田を見つめる。長い睫毛の先まで化粧が施され、奥に覗く黒な双眸は、深く艶めく。お美しいです、お嬢、とため息のような声が水田の口から漏れると、ははにかんで瞳を逸らし、ありがとう、と応えた。 春のように初々しく、雪のように凛として、このどこまでも穢れなく清廉なる彼女が今日、人の妻となる。 結局、大した話もできないまま、新婦は媒酌人に呼ばれ、控えの間を後にした。残された水田は独り、自身の内に渦巻く幾千の言葉の塵芥を追う。言いたかった、言えなかった、言うつもりもなかったその幾多と、彼女がくれたたくさんのそれのすべて、そのなかにひとつ、ひときわかがやく一葉があった。 と初めて会った日。 正確には、が初めて──彼女はあまりに幼かったので、ともすると憶えてはいないかもしれないが──水田を認識した日のことだ。水田は既に遠巻きに、の姿を見知っていた。彼女の叔父である橘に付き従う形で、橘の兄とも懇意にしていたその頃、彼の家を訪ねると、時おり庭で明るい声がした。それがだった。 あの日は雨が降っていて、橘が兄の家を訪ね、車を降りて玄関へ向かおうとすると、小さな傘がくるくると近づいてきた。傘は橘の目の前で止まり、が満面の笑みで顔を覗かせ、いらっしゃいませ、おじさま、と挨拶した。橘もそれに応じ、水田がそれまで見たこともないような柔らかい表情で、、また大きくなったな、と彼女の頭を撫でてから、水田を振り返り、俺の姪だ、かわいいだろう、と彼女を指した。水田はその頃、子どもが苦手だったので、ええ、まあ、と曖昧な返事をしてしまった。にわかに橘の顔が曇ったのを、の鈴のような声が制した。 ──千一さんね、初めまして。 おそらくは父や叔父が水田の名を口にするのを、どこかで聞いていたのだろう。橘は、さんなんて他人行儀だからつけなくていい、と笑ってから、何事もなかったようにの肩を抱いて玄関をくぐっていった。水田は寸の間呆けてから、慌てて橘の後を追った。 あんなふうに名前を呼ばれたのは、初めてだった。 物心ついたときから、敵か共犯か、利用価値があるのかないのか、そんな視点でしか人間関係を築けなかった。 けれど、たった一言。 に「千一さん」と呼ばれただけで、自分がとても大切に扱われたような気がしたのだ。 彼女が水田の名をさん付けで呼んだのはそれきりで、叔父に倣って下の名を呼び捨てにするようにはなったが、いまだに水田はに名を呼ばれると、あのときの浮遊感がよみがえることがある。 水田にとって橘が畏敬の存在であるなら、は敬慕の対象だった。 その積年の思情を言い尽くす術を、水田は知らない。 ただ、絶望に似た目眩の内に、彼女の幸福な明日を、遠く見つめていられることを、祈るばかり。 (けれど名も無きこの胸のざわめきを、あなたに告げずに嫁く私の心を、あなたが知る日は来るだろうか) |