「──……ああ、こんなところに居たんですか」
ゆっくりとドアの開く音がして、気だるげな声が後につづく。スパンダムは振り向くつもりも無かったが、小さくひとつ、舌打ちを返した。
「何の用だ」
「いえ別に、用というほどのものもありません」
女の間延びした科白がにじり寄るように背中へ近づき、部屋へ落ちる一縷の静けさ。こちらの反応を面白がっているとしか思えない挙動の一々に、しかしスパンダムは苛立ちを隠せない。やがて衣擦れと鼻へ息の通る含み笑いが聞こえて、女がやっとソファへ腰を下ろしたのだと判る。
がスパンダムの指揮下に配属されてから、半年程が経とうとしていた。彼女との間に互いの認識を持ってからは、ほとんど年齢に等しい年月を数えている。父親の職業の近しいがため、育った環境も否応無く似ている。年齢はの方がいくぶん若かったが、部下とはいえ期間を限定された出向扱いの彼女は、実質的にはスパンダムとほぼ土俵を同じくしていると言っても良かった。
「俺が長官室に居ちゃあ、可笑しいってェのか」
「そんなことは言ってないでしょう」
「じゃあ何か、俺に用もねェのに長官室に出向いて、てめェはこのイスでも乗っ取るハラだったんじゃねェだろうな?」
「はは、それは愉快ですねえ」
は屈託無く、今度はちゃんと長官のお留守を狙って来ますよ、と言って笑った。
父親の背を見て育ったスパンダムは、幼い頃より、本気で望めば手に入らないものなどないと思い込んで生きてきた。
実際、これまでの人生で、最終的に自分の思い通りにならなかったことが思い当たらない。物理的なものは元より、学歴、人脈、情報、出世、大抵のものは望む以前に既に目の前にずらりと並べられていたし、飽き足りなければもぎ取るだけの力も自然と得ていた。腕力ばかりはどうにもならないと見えたが、代わりにこれを遂行する者を傍に置くことは実に容易く、よほど合理的だった。
そうして、この世の総てを、──未来さえもを、両の手のひらの内に収めたつもりでいたというのに。
指の隙間をかいくぐり、いつのまにだか、彼の世界の外側にいた者。
「──……
上司になっても恋人になっても、彼女のことは何一つわからなかった。
好きな酒の銘柄を知っているとか同じ時を過ごした長さだとか、もっと言えばその肌のぬくもりを知っているとか、そういうことが「相手を知る」ということではないのだと、こんなに歳を重ねてしまった今になって、これほどまでに思い知らされるとは。ただがむしゃらに求めるだけでは決して手に入ることのない、蜃気楼のような真実。
「俺はてめェの、そういうところが大嫌いだ」
「寂しいことを言わないでくださいよ」
「うるせェ、知るか」
そのほほ笑みで瞳を満たし、その声音に耳を浸して、温もりを感じるほど近くに居ながら、心は遠くて見えもしない。
「大嫌いなんだよ、てめェなんか」
手に入らないものなど。
要らないと。
思えない。
そのことに未だ、スパンダムは気付かない。