氏は焦燥に駆られていた。
どうしても、あの世界をとろけるような甘い匂いで包み込む、偉大なるお菓子工場の主に、会わなければならないと思った。
「しかし」
四角い顔の秘書が、苦々しげに否定的な言葉を吐くのにも、うんざりしていた。
子どもたちの夢の灯火が、今にも消えそうなのだ。予算会議も議員との会食も広告塔アイドルのオーディションも、知ったことではない。
「ともかく、私は出かけます。ウォンカ氏には既に、アポイントメントを取ってあるのだから」
自分より一回りも年の若い、「おとぎの国の女王」にぴしゃりと言われて、草臥れた背広の秘書は肩を落とし、彼女の背中を見送った。



「─────やあ、本当にいらっしゃるとは思いませんでしたよ」
応接室に入るなり、居丈高にそう言ったウォンカは、ソファから立ち上がってこちらに会釈をした女性に、申し訳程度の会釈を返した。
「えーと……ミス・?」
「そうです。先日は突然のお電話、本当にすみませんでした。お会いできて光栄ですわ」
柔らかい声と笑顔で手を差し出した氏を、ウォンカは一瞥して、その手を取ることはせず、どうぞお掛けに、と促し、自分もソファに身を沈めた。
「それで、お話というのは」
「ええ、実は私たちの職業にとても深い関係のある事柄について、相談にのっていただきたいのです」
「と、言いますと? 失礼ですけど、ここはチョコレート工場、僕は世界一のショコラティエです。一方のあなたは……」
「世界が夢見るおとぎの国、ワンダーランドを経営する、遊園地の園長です。……今は、先代の園長がいた頃にくらべて、人気が落ちてきていますが」
「なるほど。で、お話は、僕たちの職業の類似点について、でしたっけ? チョコレートとメリーゴーラウンドの共通点?」
ホットココアを運んできたチャーリーは、二人のやりとりをハラハラしながら見守っていた。
工場にお客が来るのは、めったにないことだった。その貴重な客人の来訪の手続きを一昨日、ウォンカに取り次いだのは、チャーリーだった。氏の優しそうな声を受話器越しに聞いたチャーリーは、いったいどんな素敵な女性だろう、とわくわくしながらこの日を待っていたのだが、工場長の対応があまりに粗野なので───それは、今日に限ったことではないのだけれど───今は、温厚そうな彼女がいつ、我慢ならなくなって怒り出してしまうのか、そればかりが心配だった。
「いいえ、ウォンカさん」
チャーリーの不安をよそに、氏は気分を害した素振りも見せず、今日の訪問の理由を説明しはじめた。
「お菓子も遊園地も、子どもたちが大好きな、甘くてふわふわした夢に包まれていますでしょう。私たちは夢を売っている、そう言ってもさしつかえないと思っております。そういう点で、私たちの仕事は、とても似ていると思いません?」
「…………まあ、そういうことにしておきましょうか」
チャーリーのもの言いたげな視線を、やっと感じ取ったのか、ウォンカは言葉を飲むような仕草をしてから、しぶしぶ、というふうに、頷いてみせる。
ワンダーランドは、私が祖父から受け継いだものなのです。祖父はとても無邪気な人でした。世界の誰も思いつかないようなアトラクションを次々とデザインして、どんな技師でも匙を投げたくなるような複雑な仕掛けも、必ず完成させてしまう。子どもの夢を何でも叶えてくれる、魔法使いのような存在……私は彼の孫であることを、とても誇りに思っています」
氏の話を、ウォンカは退屈そうに聞いていた。ときおりシルクハットを被りなおし、ときおりココアをのぞき込み、そのたびにチャーリーにじっと見つめられ、あわててソファに居直るのだった。
「その祖父も、三年前に他界しました。遊園地の経営は、はじめは父が継ぐと言っていたのですが、後に祖父が弁護士を雇って遺言書を遺していたことがわかったのです。開封してみると、『ワンダーランドは、孫娘、に委ねる』と」
「お父さんはそのとき、何て言ったんですか?」
いてもたってもいられなくなって、チャーリーが口を挟んだ。言ってしまってから、こんな子どもが大人の話に首を突っ込むなんて、と思われたかしら、と恥ずかしくなったが、氏は何でもないことのようにチャーリーに向き直って、彼の疑問に答えてくれた。
「父もそのときは既に、家具の売買事業で成功していましたし、もともと遊園地に興味もないようだったので、私がそうしたいのなら継げばいい、と言ってくれました」
「そっか」
疑問が解決したのと、氏から認められたことが嬉しくて、チャーリーは頬を染めながら頷く。
それまで黙っていたウォンカが、突然、口を開いた。
「あなた自身は、やりたかったのですか?」
「ええ、もちろん。私は祖父が大好きでしたし、祖父の遺した夢の国を終わらせてはいけない、子どもたちの夢を消してしまってはいけない、そう思って……」
「僕が聞いてるのは、そういうことじゃない」
ひらひらと右手を振って、氏の言葉を遮ったウォンカは、大仰な身振りで長い脚を組み変えると、ココアを一口すすった。
「あなたはあなたのお祖父さんや世界中の子どもたちのためと銘打って巨大な遊園地を経営している、でもその経営状況は芳しいとはとても言えない、企業経営を優秀なお父さんの下で自然と学んできたはずのあなたなのに、ね。なぜだかわかります? おっと、それがわからないから、ここへ来たんでしたっけ」
喉を鳴らし、猫のような声で、ウォンカは可笑しそうに笑う。チャーリーはあわててウォンカの服の裾を引っ張ってみたが、彼は一向に気付かない。
「簡単なことです。教えてあげましょう、なぜ、お祖父さんにできたことがあなたにできないのか、なぜ、あなたの経営する遊園地が、子どもたちに人気がないのか」
うふん、と一つ、咳払いをして、ウォンカはいったん言葉を止める。すらりと長い人差し指を、ぴんと天井へ向けた。
「あなたが、あなたのために遊園地を経営していないから」
おしまいだ、とチャーリーは思った。怖くて、氏の方を見ることができない。彼女の、お祖父さんとの大切な約束である遊園地を、ウォンカは頭から否定したのだ。目の前の大きな友達がココアまみれになるまで、あと何秒だろう、とそんなことを考えた。
けれど、いくら待っても、その瞬間は来なかった。
「─────たしかに」
長い沈黙があって、やがてぽつりと、氏がそれを破った。
「ウォンカさんの、言うとおりかもしれません。私は、祖父のため、子どもたちのために、遊園地を続けてきた。でも」
チャーリーはおそるおそる、氏の方へ顔を向ける。氏は、チャーリーの予想に反して、目からうろこが落ちた、というような、さっぱりとした顔をしていた。
「私のために、なんて、考えたこともなかった」
「そんなことで、夢を売る仕事、なんて、よく言えたものだ」
また余計なことを! とチャーリーはウォンカを睨んだが、氏はほがらかな笑い声をたてて、ええ、本当に、と言った。
「……いろいろ考えすぎて、わからなくなってしまっていたんです。予算をきちんと管理することは、従業員たちのことを考えれば大切なことだし、政財界の著名人とコネクションを持っておくのも、投資していただければそれだけ、遊園地の規模を拡大できる。広告に、より宣伝効果の大きいアイドルを起用することだって、重要だってことも、わかってはいるんです。でも、そればかりにかまけていたら、何かが違う気がして。秘書にあたってしまったこともあります」
「あなたって、そんなにいろんなことを考えながら仕事をしてるの? 変わってる」
「では、ウォンカさんはどんなことを考えて、お仕事をなさってるの?」
「僕はいつだって、素敵なフレーバーのことで頭がいっぱい。常に未知のお菓子について考えてる、それだけ。あとの面倒なことは……そういうのを専門に考えてくれる役職をつくって、任せてあるしね」
自分の仕事振りについて語るのは楽しいらしく、少し興奮した様子でまくしたてたウォンカは、背後に控えた背広のウンパ・ルンパをちらりと振り返って、ウィンクしてみせた。
「だからあなたもその……面倒なことは、秘書に任せてしまってはいかがです?」
「ハロルドに? でも、彼もいろいろと、仕事を抱えているし」
「それはまた、その下の役職の者に任せればいいだけのこと。その下も他の仕事があるなら、それもそのまた下に任せればいい。下がるところまで下がって、もう後がなくなったら、新しくその下に役職をつくればいい」
「…………あなたって、何ていうか」
ウォンカの自信満々な理論に、氏は呆気に取られたような顔をして、それから、ふふっと笑った。
「すごいわ、ウォンカさん、あなたって人は。私がこの三年、悩み抜いてきたことを、こんなにあっさり解決してしまうなんて」
鳶色の瞳をまん丸にして、氏はそう言った。彼女の言葉はウォンカのお気に召したらしく、彼はふふんと鼻を鳴らして、そうでしょうとも、と得意気に頷く。
「ハロルドと……うちの秘書と、一度じっくり、話してみますわ。彼もきっと、志は私と一緒。理解して、ついてきてくれるはずですもの」
「よかったですね、さん」
「ええ。ありがとう、ウォンカさん。そして、チャーリー、あなたも」
氏に微笑まれて、チャーリーは嬉しさのあまり、はにかみながら俯いてしまった。



工場を去っていくヘリコプターを見送りながら、ウォンカもチャーリーもどこかあたたかい気持ちで、ヘリポートに立っていた。
ワンダーランドが、また昔の人気を取り戻せるといいね」
「昔の人気? そんなものではないよ、彼女が本気を出したら、世界と言わず、宇宙が夢見るおとぎの国をつくるだろうね」
「宇宙って、おおげさだなあ」
「おおげさなものか。彼女ならやるね、何てったって、この僕がアドバイスしたんだから」
「なあんだ、結局は自分の自慢じゃないか」
チャーリーは溜め息をついてみせたが、その声は楽しそうだった。
結局は自分の自慢、と言われてしまったが、ウォンカが氏を評価するのには、もう一つ、根拠があった。
ウォンカは彼女の祖父を知っていたのだ。彼がまだ生きていた頃、ウォンカのチョコレート工場はまだできたてで、誰も知らない小さな工場だった。ウォンカは自分のつくったチョコレートを売ってくれる店を探していたが、どこも、聞いたことのない名前の工場のお菓子など売る気になれない、と彼をつっぱね、ウォンカは途方に暮れていた。ミスター・はそんなはじかれもののウォンカのお菓子を、トラックで三百台も買い占めて、自分の遊園地で売りに売った。お菓子はあっというまに売り切れて、ウォンカの名前は世界に広まった。
あのとき、ミスター・がウォンカのお菓子を買い占めたのは……。
「彼が、僕と似てるって証拠だよね。その彼が自分の夢を託したんだから、ミス・もきっと、僕と似てるはず」
だからきっと、彼女の夢の国は生まれ変わる、今よりもっと、昔よりもっともっと素敵に。
だって、僕たちは似ているから。
「何か言った?」
チャーリーが聞いた。
「いいや、何も? さ、戻ろう、ここは寒い」
「あ、待ってよ」
ステッキをぶんぶん振り回しながら建物へと戻っていくウォンカの背中を、チャーリーは駆け足で追いかける。
ヘリコプターは黒い点となって、真っ白な空の彼方へ、吸い込まれるように消えていくところだった。