ヘンリー・ウォットン卿ご自慢のご高説のなかに、今生の女性の普くは美しいだけの花瓶か装丁の拙い百科事典のどちらかでしかないというのがあり、それから推すに、卿は友人の妹であるを、女と思ってはいないようだった。
「やあ、兄さんは今日も図書館かい」
生垣の花を摘んでいたを、往来から呼び止める声があり、彼女はそちらへ頭を動かした。ヘンリーがにこやかに左手を挙げ、庭へ入ってくるところだった。
「こんにちは、ハリー。お察しのとおり、兄はおりません」
「そんなとこだろうね、あれの愚鈍は学校内でも誰より優る。課題が終わらなくてもう一週間も通い詰めなのだろう」
「まったくそのとおりですが、実の妹の前で兄をそんなふうに言うのはよしてください」
「これは失礼。気安さも友情の証しと思ってくれてかまわないよ」
「あなたのその口車にまんまと騙され、あなたと親密な気でいるのもまた、兄の美徳です」
「美徳かね。愚鈍の間違いだろう」
飄々と手を振りながら言葉を紡ぐヘンリーに、さして興味も無さそうに応答していたは、やがて返事もしなくなり、生垣の作業に視線を戻す。友がいないのじゃあ、ぼくがここへ来た意味がない、とヘンリーは肩をすくめたが、彼女がそれにも応えないので、独り言をした格好になってしまった。若い紳士は溜め息をついて、さらにひとつ年若な淑女の横へ来て一緒に屈んだ。
「何だってきみは庭師の真似事を?」
「女は花が好きなものです」
「たしかにそうだが、きみに限っては、そんな理由で花など摘んだりしないだろう」
兄の友人の陽気な邪推に、は面倒くさそうにちょっと口をつぐんでから、摘み取った花を入れた籠を持って立ち上がった。そのままくるりと背を向け、家の中へ入っていくのを、ヘンリーが揚々と追っていく。五月の昼の白い光を背にした屋内は目に慣れない暗闇と思われたが、それも一瞬だった。長い廊下を進んで三度右へ左へ折れ、少女は小さな部屋へ客人を招き入れた。
壁一面に薬品棚の設えられた、簡素な部屋だった。真ん中に大きな作業台があり、鋏やピンセットや錫の匙の大小などが散らかっていた。窓辺にも背の低い棚が並んでおり、そこへ置かれたたくさんのガラスドームが陽光を受けてにぶくかがやいていた。
「年頃の娘の部屋とは思われないね」
は無言のまま、花の籠を作業台に載せる。中からひとつひとつ花を取り出し、ちょっと眺めては順番に並べていく。その基準が大小なのか色の違いなのか、ヘンリーにはわからなかった。
「何かの実験かい」
「ほかの花どうしでも実をつけるのか、試しているのよ」
「兄さんのお株を奪うとは、大した妹だ」
「図書館にある知識は皆、先人のお古だわ」
「ごもっとも」
その点に気付いているというだけでも、家は子息と息女の性別を入れ替える術を是非ともさがすべきだろうね、とヘンリーは笑った。はこれにもまた、大した引っかかりも憤慨めいたものも見せない。彼女は元来が、他人に興味を示すということをしないたちで、それもまた、女性に甘い言葉をささやきがちなウォットン卿をして、彼女を口説く気にならしめない理由のひとつでもあった。
「しかし、摘みも摘み取ったり。これだけの花を一同に会させて、用が済んだらどうするんだい」
「欲しければどうぞ。花を贈りたいひとでもいれば、足しになさって」
「きみにしては妙案だが、遠慮しておくよ。他の女性からもらったものを、愛するひとには捧げられない」
「そういうものかしら」
「まして実験に使った後の用済みだと知れては、ぼくは確実にふられる」
「きれいに咲いていたところを、私の知的好奇心のためだけに、死に足を早めてしまったことは、申し訳ないと思っているのよ」
ふいにしおらしいことを言うので、今度はヘンリーの知的好奇心が俄かに擽られる。人がこういう感傷的な科白を吐くときは、たいてい、その心は詩的気分に陥っている。たとえば恋。それは、当人でさえまだ自身の内にそれの在ることを知らぬうちから、口を衝いて出てしまうものなのだ。そして、ヘンリーはそういった他人の心情の機微に怖しく目聡い。
「では、花の美しいうちに、それを留めてくれる人に預けてはどうかね」
「花の美しさを留める?」
「そう! たとえば、画家」
の訝った目をすかさず捉え、ヘンリーは特別真摯な面差しをつくる。作業台から一輪、ひときわ大きく、美しく首をもたげるゆりの花を持ち上げ、それをに差し出しながら、もう一人の友人の名を出した。
「バジルなら、よろこんできみから花をもらうだろうね」
「絵画のモチーフとしては、ありきたりだと思うけれど」
「花に罪はない。そのいのちを我が身のために切り裂いたのを、心苦しく思うのだろう?」
「そうね、美しさを留める……」
考え込む様子で顎に手をやり、は受け取ったゆりの花をしげしげと眺める。やがて何かにはじかれたように、くるりと向きを変え、壁際の薬品棚を漁り始めた。
「どうしたんだい、一人で行くのが心許ないなら、ぼくも一緒にバジルのアトリエに行こうか?」
「アトリエ? ああ、どうぞお一人で。摘み取った花の寿命を延ばす薬というのを、以前に本で読んだわ。それを再現してみたいの」
忙しいので、もうお引き取り下さらない、とそっけないの言葉に、ヘンリーはほとほと呆れたといったように、盛大な溜め息をついてみせたが、それも彼女の目にはもう映ることがない。
女はやはり、かわいげがあるのに尽きる。
頭を振り振り、ヘンリーは小さな実験室を後にした。


*


そういうわけで、の家に寄ったのは完全なる時間の無駄となった、と大仰な身振りで話し終え、ヘンリーはティーカップに口をつけた。バジルはデッサンの手を止めもせず、それは残念だった、と気の無い返事をする。やれやれ、ぼくの友人ときたら、ぼくの目を見て話のできるやつが一人もいない、とヘンリーはごちた。
「きみの失恋の話など、日常茶飯事なのだ、目を見て聞くほど大それたことでもなかろう」
「ちょっと待て、ぼくがいつ、失恋したのだ」
から花をもらおうと画策したが失敗した、という話を、今しがたきみはしたばかりじゃないか」
「いや、違う。君はデッサンに夢中で、ぼくの話をちゃんと聞いていないから、そういう誤解が生じたのだ」
ぼくはあれを女と認めた覚えはない、とヘンリーが主張すると、バジルはふと手を止め、さも不思議そうにヘンリーへ目を向ける。
「きみはてっきり、美しいものを愛さずにはおれないたちだと思っていたが」
「ぼくはそりゃあ、美しいものを愛さずにはおれないたちだが、変わり者には興味こそあれ恋愛感情など湧かないよ」
「しかし、彼女は美しい」
「バジル、美と恋とはときに等号が成り立たないこともある」
そういうものだろううか、とクロッキーを唇に押し当てるバジルを見ながら、ヘンリーは本日二度目の、腹の底から熾り立つような好奇心の発生を感じた。目の前で、友の話よりもデッサンを優先する男が、その手を止め、美と恋との相関について自ら考をめぐらせ始めた。なんだ、こいつもまた、恋という大きな門の前で、表札がわからずに煩悶しているのだ。
「いいかいバジル、ぼくは、ぼくにまるで興味を示さない女性を愛することもあるが、それは振り向かせるだけの自信があるからだ。だが彼女は違う」
がきみにほほえむことはない?」
「女はだれでも火遊びが好きだ。だがまれに、心にひとりの男を住まわせ、後生大事にそれだけを抱いて生きる種類の女もある」
ぼくはそれを女とは思わない。ヘンリーは春風の軽やかさでそう言って、また一口茶をすすった。バジルは未だ動かぬまま、何事かを考えあぐねている。
には、だれか想うひとがいるのだろうか」
「さあね。さしずめ今は、実験が恋人といったところだろうが」
そこへ使用人がノックとともに入ってきた。家の嬢からですと言って、花の入った籠と、特殊な薬品に漬け込んでひと月の間美しさを保つようになった珍しい花なので、ぜひ絵に残してほしい、という旨の手紙を、バジルに渡した。
「よかったじゃないか、花がもらえて」
「ああ、なんだか、すまない」
「きみに謝られる筋合いは、ぼくにはないがね」
呆れながらヘンリーは首を横に振った。
そして、バジルの当惑したようなはにかみ顔を、に見せてやる術がないかと、愉しい空想に耽った。