その男に出会ったのは、ある晴れた昼下がりの公園だった。
丁寧に撫でつけた頭髪に茶のジャケットとベストを着込んだ、整った身なりの印象とは裏腹に、ブランコをこぎながら鼻歌に興じる姿は、閑静な住宅街の平穏さにはどこか馴染まず、異様を呈しているものだから、学校帰りの子どもたちは気味悪がって公園へ近づかないし、奥様方の井戸端会議に噂の花を咲かせる格好の種となっている。市職員、それも福祉課に所属する身として、市民の安寧の下に住み良い街を目指さんとする公務員気質がはたらいたかは定かでないが、警察へ通報しないまでも、不審の芽は取り除いたほうがよかろうという思いが、自然と起こったのだった。
「あの」
後ろから声をかけると、男は赤の巻き毛を揺らして振り向いた。何か、と小首を傾げる様子は邪心とは程遠く見え、どちらかといえば純粋な心根の持ち主なのだろうと思わせる風でもある。
「どなたかと、お待ち合わせですか」
大の大人が白昼に一人、公園で歌をくちずさむ理由として、考えられる限りまともな回答を期待したが、彼はにこにこしながら首を横に振る。いいえ、散歩に出ましたがあまりに気持ちのよい陽気なので、こうして風を感じながら音楽を奏でたくなりまして。詩を詠じるような彼の言葉に、私は一拍、突っ込みたくなる衝動を飲み込んで、そうですか、と微笑むのが精一杯だった。
「このお近くにお住まいですか」
「ええ。長らく人を探して訪ね歩いていたのですが、その人がこの街にいることをようやく知りまして、この商店街の先のお屋敷に、先日からご厄介になっております」
「はあ、ご親戚の方でしょうか」
「いえ、敬愛する音楽家の先輩です。まさか同じ屋敷に住めることになるとは、天にものぼる心持ちとは今の私のためにある言葉かと思うほどなのですが。ああそれで、その先輩が昨日から、部屋に篭もり創作活動に没頭しておられるので、私はお邪魔にならぬよう、散歩に出たというわけでして」
男の話が止まらないので、私は仕方なしに、となりのブランコに腰かけ、ときどき相槌を打ちながら彼の相手をした。空は青く、小鳥は遊び、ときおり雲の影がゆっくりと、私たちの上を通り過ぎてゆく。左からよどみなく流れてくる男の声は朗々と、その先輩とやらへの尊崇の念を謳い上げるのだが、それがこののどかな情景とあいまって耳に心地良く、何だかシューベルトの歌曲でも聴いているかのような感覚を私に与えていた。ああ今日は民生委員の人と駅向こう三丁目の川上さんのお宅を訪問したら、三時には庁舎へ戻って書類を片付けようと思っていたのに。社会人の理性として仕事を案じてみたところで、どうやら私はすっかりこの安穏という名の沼に陥り、抜け出す気すら起こらないようだった。とはいえ私がここにいることで、「公園で鼻歌混じりに一人でブランコをこぐ男」から「一人で」の部分が消え、「知人らしき女性と並んで会話をしている」という、いくらかまともな構図にはなったので、子どもたちも安心して砂場やジャングルジムで遊びはじめ、奥様方の噂は特売日のチラシの話へと移っていった。まあこれも、広義で言えば、私の仕事の一環と、言えなくもない、かもしれない。
やがて陽は西へ傾き、防災無線の赤とんぼが流れ始めると、二人そろってわけもなく天を仰いだ。
「おや、ずいぶん話し込んでしまいました。お時間を取らせてしまい、申し訳ない」
「いえ、とても興味深いお話でした。あなたがどれだけその先輩を慕っておられるか、よくわかりましたし」
私の感想を聞き、男は照れたように相好を崩した。知り合ってまだ二時間ほどではあるが、その表情からだけでも、彼の人好きのする性格がにじみ出ているのが感じられる。
車で屋敷まで送り届けるという私の申し出を、男は丁寧な口振りで断った。
「先輩のために、商店街でギョーザーを買って帰りたいのです」
「餃子、ですか、いいですねえ。では、お気をつけて」
彼と別れ、庁舎へ戻った私は、結局デスクワークを明日へ回し、簡単な今日の引き継ぎを終えて帰途に着いた。近所のスーパーで夕飯のおかずを買ったが、家に着いてから、無意識に餃子を選んでいたことに気付いた。
そういえば名前も聞かなかったけれど、彼も無事、先輩に餃子を食べてもらえただろうか。
そんなことを考え、自然と笑みが浮かぶのだった。